第5話 記憶喪失の医者

「次の方どうぞー」


 瑞浪みずな市でも有名な大病院、何十人もの医師が日々右へ左へと行き交う八辻やつじ病院の診察室で夜拆よひら御影みかげは誰にも聞こえないように嘆息した。傍らには小さな折り鶴。昨日、小児癌で入院している少年から貰ったものだ。


 どうして病気の人には鶴を折るのだろう? 少年の主治医も看護師も、少年のベッドの横に吊るされた千羽鶴を見て笑った。

 ────いいお友達だね。頑張って治そうね。

 それが分からない。折るなとは言わない。けれど、医療費を出す事も病気を治すことも出来ない人間が、自分に出来る事は何かと考えた結果が何故折り鶴なのか。退院したら置き場に困るだろうに。

 こんな事を人に言ったら変な顔をされるだろうか。自分だけが変なのだろう。患者を前に考え事をして勝手に疎外感を覚える。


 それもこれも全て、僕が記憶喪失だからに違いない。


 数ヶ月前、僕は蛍ちゃんと雪蛍ちゃんに出会った。ある日の夜、気付くと畳の上で寝ていた僕には、凡そ1日分の記憶が無かった。蛍ちゃんの話によると僕は山の中で麻袋に血塗れの状態で入れられていたらしい。つまり死にかけだ。でも目覚めた時にはそんな傷はどこにもなく、雪蛍ちゃんが治してくれたとの事だった。


 にわかには信じがたい話で、2人の正体含めて一医者として今まで生きてきた僕には突飛な出来事だった。だけど嘘をついているようには見えなかったし、自分の記憶が抜けている事もまた事実だった。

 何より、その話を聞かされる前、目覚めた瞬間から僕は何かとても大事な事を忘れている気がしていた。日常生活でも度々起こるあの現象よりも強烈で、何ヶ月か経った今でもずっと僕に纏わりついて離れない違和感。1日分の記憶だけじゃない。もっと、人生に関わる何かで、絶対に忘れてはいけないものの記憶。

 その正体を追う事に協力してくれるという雪蛍ちゃんと、協力する気はなさそうでも僕を助けてくれた蛍ちゃんはとても優しい子達で、僕の恩人だ。


 幸い日常生活に支障はなく、仕事も変わらず続けている。同僚と話していても「お前なんか変わった?」的な事は言われないから忘れたのは感情の1部とかではなさそうな気がする。こういう時は精神科にでも行くべきなんだろうが、結果は目に見えている。

「記憶が1日分なくて、他にも大事な事忘れてる気がするんです」程度の説明しかできない。受けた傷なんて綺麗になくなっているし、思い出せそうなあてもないし、日常生活に支障はないとなれば様子見で、で終わりだろう。


 だから僕は、今日も季節外れの雪を踏みながらあの屋敷を尋ねる。することといえば、経過報告と銘打った雑談だ。

 インターホンはないので控えめに戸を叩く。すぐに雪蛍ちゃんが、透き通るような長髪を揺らして出てくる。


「いらっしゃい夜拆さん」

「こんにちは雪蛍ちゃん」

「入って。待ってたよ」


 居間に入らせてもらうと、蛍ちゃんがこたつの中から顔だけ出して僕を見上げた。翡翠とレモン色の瞳が僕を捉える。


「なんだまた来たのか」

「やぁ蛍ちゃん。お邪魔してるよ」

「まぁまぁ座って。蛍、夏夜ちゃんの話してもいいよね?」

「……別にいいけど、なんで許可取るんだ」


 聞くところによると、夏夜かやという女子高生が突然蛍ちゃんの前に現れその流れで2人とは友達になったらしい。

 女の子同士だから打ち解けるのも早いのだろうか。蛍ちゃんに心を許して(?)貰うまで1ヶ月かかったのが嘘みたいだ。そんな複雑な心境を察してか、雪蛍ちゃんが穏やかな笑顔で言ってくれた。


「夜拆さんが先に蛍と仲良くなってなかったらこうはいかなかったよねー」

「仲良くない!」


 蛍ちゃんが即座に否定した。

 蛍が敬語を崩して目を合わせるようになったってことは夜拆さんの事信用し始めた証拠なんだよ。前に雪蛍ちゃんがそう言ってくれた。なら僕は蛍ちゃんと仲良くなれているんだろうか?


 小1時間ほど雑談を交わしてそろそろ帰るね、と言って居間を出ようとしたところで背中に雪蛍ちゃんが何度も聞いた言葉を掛ける。


「夜拆さん、何か思い出せた?」


 僕は振り向いた。多分、申し訳なさそうに笑っていたと思う。


「ごめん、まだ何も思い出せないんだ」

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