翡翠の屋敷で変人と

兎蛍

第1章 女子高生と不老不死と

第1話 雪の噂

 春と呼ぶには少し涼しい風を受けながら、学校までの坂を歩く。新学期早々寝坊して食パンをくわえながら青信号の点滅する交差点を突っ走る────そんな羽目になる程、私には少女漫画の主人公のような素質はなかった。

 だけど今日この日は新しい出会いがありそうな予感がして、これまで1度も走ったことのないその坂を一息に駆け上がった。


 宇宙の果てまで続いていると言われても信じてしまいそうな天高い青空、多少の年季を感じさせる校舎、それらを背景に正門の横に立って生徒達を出迎える満開の桜の大木。見慣れた光景のはずなのに、どこか新鮮に、眩しく映った。


「今日から2年生か……」


 正面玄関前に立っている時計を見る。7時25分。始業のちょうど1時間前で、辺りには生徒はおろか、車の1台すらも通っていなかった。


 足音がよく響く無人の廊下を、一定のリズムを刻みながら歩く。窓から入る朝日が今日はやけに輝いて見えた。

 やがて2Fと書かれた扉の前で立ち止まる。北館2階、職員室を通り過ぎてすぐの教室だ。そう言えばさっき職員室通った時鍵貰ってくれば良かったかな、どうせまだ教室空いてないでしょと思いながら扉に手を掛けた。


 真ん中あたりの列の、どちらかと言えば廊下寄りの一番後ろの席に男子生徒が座っていた。


 この教室どころか全クラス周ってみてもまだ誰もいないだろうという私の予想を裏切って、文庫本に目を落とす生徒が、そこにいた。俯き加減の姿勢と長い前髪で顔はよく見えないが、多分知らない人だ。私は取り敢えず、黒板に貼られている座席表で自分の席と男子生徒の名前を確認した。


 白刃冬雪しらはふゆき。白刃、変わった苗字だ。そしてその左隣に自分の名前を確認して、何とも言えない感情を覚えた。言うなれば、一番後ろの席だラッキー、というのと、隣の席に誰が来るかというワクワク感を持ちつつ座って待つ楽しみが消えてしまった虚しさに近い何か、だ。


 席に着いて数分経った。白刃という男子生徒の表情は相変わらず掴めなく、止まった空気が流れていた。気まずい。せめて女子なら、話しかけようもあったのだろうが、私は生憎、相手を選ばず誰にでも話しかけられるほどのコミュ力は持ち合わせていなかった。いやそもそも隣の席だからって仲良くなる必要はないのだけど。


「冬雪ー! おはよう!」


 停滞した空気を勢い良く破って後ろから入って来た生徒がいた。記念すべき3人目の生徒だ。私はいきなりの事に肩を一瞬震わせつつもその生徒を振り返った。肩にかかるくらいの長髪で、人懐っこそうな顔をしている男子生徒だ。


「おはよう日向ひなた


 それが私の聞いた白刃冬雪の第一声だった。透き通った声だが、何とも暗い話し方だ。


「君も、おはよう!」

「あ、おはよう」


 日向と呼ばれた男子が私にも挨拶をしてきた。一応、笑顔で返す。


「多分去年A組じゃなかったよね? 俺、藤原日向ふじわらひなた! よろしく」


 素晴らしいコミュ力の持ち主だ。白刃君は多数いる友達のうちの一人って感じだろうか。

 まだ話したこともない白刃君に対して、そんな失礼な事を思いながらも私はまた普通に返した。


南雲なぐも夏夜かや。よろしくね」


 そう言ったところでようやく、白刃君が顔を上げた。

 前髪は思ったより長くはなかった。非常に端正な顔立ちだ。だけど。


 私が小説家なら、彼の目をこう表現するだろう。

 俗世を軽蔑するかのようにどこまでも暗く、うろのように淀んだ瞳。


 私と目を合わせたのは一瞬で、今度は藤原君の方を向いて話しかけた。


「日向、1番前の席だったよ」

「え!? マジで!? ……うわっ本当だ最悪!」


 白刃君が言うなり、藤原君は教室の端から端まで走り抜け、明らかに落胆したように肩を落とした。感情表現が豊かな人だ。

 また後ろのドアが開いた。今度は控えめに、音からして女子の開け方だ。


「夏夜ちゃんおはよう〜また同じクラスだね!」


 よく聞く声が後ろから飛んで来て振り返った。去年同じクラスで、高校で初めて出来た友達、双葉葵衣ふたばあおいちゃんだ。春休み前と変わらないおかっぱ頭に、好奇心を秘めた猫のような目が輝いている。葵衣ちゃんはまだ人の少ない教室を見回した。鞄に付けた、お気に入りだという猫のストラップが揺れた。


「あ、藤原君と白刃君も同じクラスだ!」


 そう嬉しそうに言ったのが意外だった。2人と知り合いだったらしい。

「あれ、南雲さんと双葉さん友達だったんだ」

「そうなの、1年の時から」


「知り合い?」

 囁くように葵衣ちゃんに尋ねると、葵衣ちゃんは明るい瞳をさらに輝かせて言った。


「そう、2人とも小学校からの知り合い! 夏夜ちゃんは、2人と今初めて会った?」

「うん、今初めて話した」

「そっか、まぁ3人ともまたよろしくね!」


 葵依ちゃんが快活にそう言って笑うと、私と藤原君はよろしくー、と返し、白刃君は僅かに目線を上げて頷いた。

 教室の外からも、同じクラスになれたことを喜ぶ声や、新しい環境に期待するような話し声が廊下や前後の教室から聞こえてくる。

 朝の時間が、ようやく動き出したようだった。


 始業式を終えて体育館を出た時、学校のそばにある山が目に入った。まだ常緑樹にも雪化粧の残っている、小さな山だ。学校に植えられた満開の桜と見比べて、私は隣を歩く葵衣ちゃんに聞いた。


「あの山、まだ雪積もってるね。変じゃない?」

「うん、あの山は雪女が住んでるって噂があって、それだけじゃただの都市伝説みたいなもんだけど、この辺でも毎年雪は最後まで残るし、あの山の中だけ周りと明らかに温度違うって話もあるし今じゃ誰も近寄らないんだよね」

「へぇ、なんか怖いね」


 随分と詳しいが、オカルトにでも興味があるのだろうか。


「そうかな? 雪女と友達にでもなれたら面白そうじゃない?」

「それはそうだけど」

「もし行ったら雪女いたか教えてね!」


 葵衣ちゃんは笑ってそう言った。流石に本気にはしていないらしい。


「うん、今度見に行ってみるね」

 行かない時の常套句だ。



 その日の放課後、私はあの山の麓にいた。少し前まではすぐ家に帰るつもりでいたのに。雪が太陽の光を反射して所々鋭い光を放っている。

もちろん、雪女なんて信じてはいないが、日当たりに問題がある訳でもないこの場所で、まだ雪が残っているというのは少し興味がある。鞄からマフラーを出して、山に踏み入った。


 上着を着てくれば良かった。真冬のように寒いというわけでも無いし、日もまだ高いのに、マフラー程度の防寒対策では足りないものが多かったようだ。溶けて雨のように木の上から落ちてくる雪に降られながら行く宛もなく適当に歩いた。あとちょっと歩いたら帰ろう。


 恐らく頂上の近くまで来たであろう時、1輪の向日葵が目に映った。こんな季節に、こんな雪の中で、ここは一体どうなっているんだろう。本当に夢か何かかも知れない。葵衣ちゃんへの土産話にでもしようかと思って、しゃがんでその向日葵を覗き込んだ時だった。


「何してるんですか」


 冷たい声が上から降ってきた。女性の声だ。ひとつの可能性が一瞬過ぎる。まさか、そんな筈は。恐る恐る、振り返った。


「────あ、」

 緑の髪が目に入った。5月の新緑のような、優しい色とは裏腹に、鮮やかな緑と黄色のオッドアイが私を睨んでいた。


「そこ私の家なんですけど」

「え」


 目線を元に戻して見上げると、向日葵のすぐ後ろに大きな和風の御屋敷があった。今まで全く気付かなかった。意識しなくても目に入りそうなのに。私の家、と言っていた。なら私は他人の家の前をうろつく不審者に見えただろうか。


「あの、すみません! ちょっと花を見てただけで、」


 そう言って向日葵があった場所を指した。だがそこには、他と変わらない雪に小さな岩が覗いているだけだった。少女は不思議そうに首を傾げた。


「花?」

「いえ、その、」


 何と説明したものか、このままでは通報されてしまうかもしれない。そもそもこの女の子は人間ではない可能性が高い。雪の中なのにTシャツにジーンズ、水色の薄いセーターという寒そうな格好で、何より左右色違いの瞳が少女の非人間性を物語っている。であれば、生きて帰れる保証だってない。


「にゃー」

 不意に聞こえた猫の鳴き声に顔を上げる。何か、真上からしたような。見上げると目の端に黒い塊が、落ちてくる。

 木の上から飛んできた黒猫を受け止めきれずに地面に頭を強かに打ち付ける。遅れて背中に冷たく濡れる、嫌な感触がした。少女の少し驚いたような顔を捉えて、意識が暗転した。

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