第32話:環世界にようこそ!・2
「はっ!」
白花は起き上がった。
起き上がれる身体があった。起き上がれる世界があった。ここは暗黒の空間ではなく、白花は蛆ではない。
視界に見慣れた部屋と手足が映る。
白花は自宅のゴミ山の中に突っ込んで仰向けに寝っ転がっていた。身体を包むゴミ袋がふかふかのベッドのようだ。よく高田馬場で酔い潰れた早稲田の学生がこうやってゴミ捨て場に突っ込んでいる。
しかし、ゴミ袋の周囲は蛆の生息地でもある。身体中を蛆が這い回っており、特に臍を中心にして凹んだ腹のあたりには蛆が何匹も溜まっている。
「夢……?」
さっきまでは夢を見ていたのか。夢の内容は全て思い出せた。蛆だけが集まる世界にいたことも、自分も蛆になって這い回っていたことも。
別に悪くない夢だったが、一般的には自分が蛆になるというのは悪い方から数えた方が早い悪夢であることは間違いない。
とりあえず壁のデジタル時計を見て現在時刻を確認する。
今は葬式の翌日の朝八時だ。遮光カーテンの隙間から朝の強い日差しが入ってきている。
立ち上がって鏡を見ようとするが、ゴミ袋のベッドが高反発クッションのように沈み込んで上手く立てない。人をダメにするクッションというか、人がダメになった末のクッションというか。
身体に痛みはないものの、とにかく力が入れにくい。無理に腰を持ち上げるとふらついて倒れてしまう。最近は蛆が勝手に治すせいで常に体調が良かったのでやや珍しい状態だ。
倒れた顔を上げた先にはいつもの白花が鏡に映っていた。蛆でも別の誰かでもない、白髪の二十三歳成人女性の肉体だ。何故か全裸だが、そのおかげで自分の身体に異変がないことがよくわかる。
未だ身体に力が入らず、もう一度ゴミ袋に身体を預けた。ぼーっとしたまま記憶を辿る。
コンクリートの中で蛆の夢を見ていて、目覚めたら自宅にいたというのが白花の状況理解だ。
しかしこれは意味不明で何の説明にもなっていない。夢で何が起きようがどんな整合性も壊れやしないが、コンクリート詰めにされたという現実はそうもいかない。そう、問題は夢よりもコンクリート詰めなのだ。
こうして自宅にいるということはコンクリートの中からどうにかして脱出したということになる。更に、あの教会から自宅まで移動したのも間違いない。
つまり、物理的な問題として解決しなければならないことは二つある。
一つはコンクリートの中から脱出していること。もう一つは東京と山梨の県境あたりの山中から都内の自宅までワープしていること。
それらの記憶は全くない。どうすればそれが可能なのかという想像も付かない。
「ループ? パラレルワールド? リスポーン? リンカーネーション? デウス・エクス・マキナ?」
思い付く限りの設定を口に出してみる。どれもピンと来ない。
蛆虫がコンクリートや空間まで食べられるようになったという強キャラ設定を一瞬だけ考え、すぐに首を振った。ブラウの生態がいかに不可解とはいえ、そういう生産的で強力なやつは絶対に白花のキャラではない。蛆虫のキャラでもない。
「お姉ちゃん、お姉ちゃん、聞こえますか……」
頭の中に声が聞こえた。夢の中と同じ黒華の声だ。
一応見渡すが、周りには誰もいない。蚊も飛んでいなかった。夢から覚めたと思ったのに、何故か黒華の声だけが残っている。記憶の残滓かとも思ったが、もう一度確かにはっきりと聞こえた。
「お姉ちゃん、お姉ちゃん、聞こえますか……」
「聞こえてるよ」
口に出して答えてみるものの、呼びかけが止まる気配はない。周りに誰もいないのは不幸中の幸いだ。これが電車内だったら、空中と会話するキの字の乗客になってしまう。
考えられる可能性は二つに一つしかない。
一つは、これは白花の主観的な幻聴で、精神科で治療すべきである。もう一つは、これは黒華が実際にテレパシー的なもので呼びかけてきている。もしかしたら、そういうことが出来るブラウがいたり、そういうアイテムがあったりするのかもしれない。
「……サクサク……お姉ちゃん、聞こえますか……ザクザク……お姉ちゃん……」
何かを噛み砕く音が混じってきた。ポテトチップスだ。黒華が好きな堅あげポテトのブラックペッパー味に違いない。
何が悲しくて実妹のASMRを幻聴で聞かせられているのか。食べながら喋るな。
「聞こえてますよ! お姉ちゃんですよ!」
思い切って大声で叫んでみた。しかし、念仏のような呼びかけは一向に止まらない。
「お姉ちゃん、聞こえますか、聞こえますか……聞こえていたら答えてください……」
「答えてるんだけどなー」
黒華の声が白花の声に気付く様子はない。
幻聴かテレパシーかはともかく、これが一方向通信であることは間違いないようだ。向こうから白花へは音を飛ばせるが、白花から向こうへは干渉できない。
愛する妹の声だからまだ良いようなものの、これは長く続いたらかなり厳しい。もし眠くなっても呼びかけが止まらなくなったら最悪だなと考えていると、幻聴の方が先に入眠を宣言した。
「お姉ちゃん、私は一旦仮眠するので……また起きたらよろしく……」
その声を最後に、黒華の声が止まる。スゥスゥという寝息が聞こえるが、さっきまでに比べればまだかなりましだ。
早く幻聴でない方のリアル黒華と連絡を取らなければならない。この幻聴と関係があるか確認したいし、昨日からの顛末についても何か知っているかもしれない。
スマホを求めて手を伸ばし、そこで重大なことに気付いた。
「スマホ、コンクリ詰めじゃん」
白花のスマホは、コンクリートに埋められたときも衣装の内側ポケットに入ったままだった。白花だけが全裸で部屋に戻ってきているということは、スマートフォンと衣装はコンクリートの中に埋まっている可能性が高い。
一応部屋の中を探してみるが、もちろんライトニングケーブルの先には何も刺さっていない。
「さて困ったぞ」
このご時世、連絡先はスマホに登録して他はどこにも残していない。紙とペンにメモする時代でもないし、いちいち覚えてもいない。ジュリエットや遊希の連絡先も同じだ。
スマホさえ生きていればLINEなり電話なりで誰とでも連絡が取れるのに、スマホを失えば誰とも繋がれない。コンクリートに埋められて初めてわかるデジタルネイティブ世代の弱点。
ネット環境に繋がったパソコンはあるが、そちらはNetflixの視聴にしか使っておらず連絡先は一つも入っていない。機器の同期連携も面倒でやっていなかった。
ただ、幸いにもこの家には固定回線を引いた電話機が一台置いてある。
もちろん電話帳機能など使ったことがないが、発着履歴から連絡を取れる友人が一人だけいるのを思い出す。スマホを外に忘れて帰ったとき、この固定電話で連絡を取るほど親しかった友人が一人だけいる。
本当に彼女に電話をかけていいものか少しだけ悩むが他に選択肢がない。
まだ立ち上がる体力がないのでずるずると床を這って電話機まで移動し、発着履歴を検索してそれらしい番号を選択する。
再発信。無事に呼び出し音が鳴り、相手は三コールで電話を取った。
「はい、もしもし」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます