第2話:幕ノ内弁当に蛆虫を添えて・2

「先輩まだ生きてますー? 相変わらずクソほど汚いですねー」


 スーツ姿の女性が革靴を履いたままリビングに上がり込んでくる。

 皺のないジャケット、襟がパリッと畳まれた白いブラウス、タイトな黒いスカート。僅かに茶色がかった髪を後ろで軽くまとめ、手元にはノーブランドのビジネスバッグ。この廃屋のような住居には全く似合わない、いかにもな宮仕えだ。


「死んでないよ。今食べ終わるからちょっと待っててね」

「気にせずにそのまま食べてていいですよ。私も先輩のこと気にしないので、勝手にやらせてもらいます」


 彼女は勝手に対面に座ると、人が食事をしているダイニングテーブルの上に躊躇なく足を投げ出した。長い足がカップの蓋とビニール袋を薙ぎ払い、床に叩き落とす。

 そうして作ったスペースに鞄を置き、中に突っ込んだ手が不意に止まる。彼女の目は蛆の湧いたチーズケーキを見て止まっていた。


「あれ、椿ちゃんもチーズケーキ食べたい? 食べる? ほら、あーん」

「要りませんよ。よくそんなゴミを食えるなあと思っただけです。私、虫とかマジで無理なので」

「その割には動じないよね。普通の人、最悪その場で吐くけどね」

「ゴミとゲロでお似合いなんじゃないですか?」


 椿は鞄から厚い封筒を取り出し、テーブルの上に無造作に放った。風圧で蛆虫が何匹か吹き飛ぶ。

 封筒には「引きこもりの生活状況に関する調査」と印字され、その上には黒いマジックで「先輩用」と走り書きされている。


「引きこもりの先輩へのプレゼント、今月の調査票です。いつも通り全部埋めてくださいね」


 椿は大学時代に同じ宗教学研究室に在籍していた元後輩だ。二人とも卒業した今でも先輩という二人称を使う。

 しかし、ほんの一年ちょっと前まで大学の先輩と後輩だった関係は、いまや引きこもりと引きこもり自立更生支援員に変わってしまった。

 椿が週一で家に来る理由も、「憧れの先輩の話を聞くため」から「引きこもりの自立を支援するため」に変わった。そして彼女から向けられる眼差しも、尊敬に満ちた上目遣いから侮蔑に満ちた見下しに変わった。


「提出期限は?」

「本当は今週中ですけど、私ってタスクを早く片付けたい方なので、今日中ですね。今日の外周り終わったらまた取りに来て直帰したいので、だいたい二時間くらいでお願いします」

「それは新記録だね」


 封筒を手に取り、書類の束を取り出して目を通す。

 東京都の印付きの調査票は大量のマーク欄と自由記述欄で構成されており、埋めるのがやたら面倒臭い。新卒で入った事務職を辞めたところでこの書類を作る義務が発生していると思うと、働いているのとあまり変わらないのではないか。ひょっとしたら、この書類を書かせることが職業訓練を兼ねているのかもしれない。


「『休職中のブラウに関する生活調査票』、『ブラウ再雇用に関する能力調査票』、『ブラウ特有の社会困難調査票』……今日はやたらと多くないかな。全部で十枚ちょっとだから、制限時間が二時間だと一枚あたり十分くらいしかないよ」

「先輩どうせ暇でしょ。働いてないんだから、そのくらいガーっとやってくださいよ。無職の先輩が書いた自己調査票なんて誰も真面目に読みませんし、私の報告書の後ろにクリップで留める飾りみたいなもんですから」

「これから頑張ろうという気持ちがなくなることを言うね」

「いちいち褒めておだてて貰えるのは小学生までですよ。大卒の先輩が虫みたいな暮らしをしていられるのは私の報告書のおかげなんですから、むしろ感謝してください。いくらブラウでも、日本国民の義務には依然として勤労が含まれていることを忘れないように。ちなみに先輩についての報告書はもう書きあがっているので、これと矛盾しないように適当に埋めといてください」


 椿は「引きこもり対応報告書」と書かれた書類を渡してきた。調査票が薄茶色いペラペラの再利用紙に印刷されていた一方、こちらはハイホワイトで厚いしっかりした紙だ。使われているフォントまで違う。

 右上には赤字で“confidential”と書いてあるが、そのまま読み上げる。


「皇白花、二十三歳。引きこもり状態を一年二ヶ月続けている。依然として軽い抑うつ状態にあり、現状では再就労は困難と思われる。しかし受け答えは可能であり、意志の疎通には問題がない。通称『蛆憑き』のブラウであり、蛆を身の周りに湧かせるスキルを持つ。現在の生活状況はその個性とも関係があると思われ、彼女の個性を尊重する立場からも、このまま経過観察を続けることが望ましい……って、これ先月のコピペじゃない?」

「だって何も変わってないじゃないですか。逆に何か変わりました?」

「梅雨が終わって気持ちが明るくなってる気がする」

「その明るくなったマインドで再就職する気持ちはどのくらいありますか?」

「二パーセントか三パーセントくらい」

「百パーセントになるとどうなるんですか?」

「履歴書を買う」

「働くところまで到達してないじゃないですか。なんでそんなに働きたくないんですか?」

「ゴミ食べてれば飢えないもん」


 働かないと困るのは収入が無になるからだが、収入が無になって困るのは飢え死にするからだ。逆に言えば、無料で飢えを回避できるならば働く意味は特にない。

 実際、白花が新卒で入った会社を二週間で辞めたのは、腐った廃棄弁当を食べても身体的なダメージが無い体質だと気付いたからだ。精神的にはそこそこ来るが、それは慣れで補える。


「マズローじゃないですけど、一般的に言って人間は飢えないためじゃなくて自己実現のために働くんですよ。先輩だって昔ゼミにいた頃は……」


 説教が始まりかけた瞬間、椿の鞄から響くティロンというメッセージ着信音がそれを中断する。椿は黙ってスマートフォンを確認すると、僅かに眉をひそめて立ち上がった。


「この後の仕事が詰まっているみたいです。先輩と違って勤め人の私は忙しくて長居してられませんので、さっき言った通り早く書類を仕上げておいてくださいね」

「はい、お仕事お疲れ様」

「あと、さっき道端でゴミを拾ったので今年の誕プレってことで先輩にあげます。蛆を払うのにでも使ってください」


 椿は鞄から取り出したものを白花に無造作に投げてよこす。

 それは大きなブラシだった。持ち手は琥珀のように半透明で、白い毛はしなやかで柔らかなものが生えそろっている。その繊細な作りから見るに、馬の毛か何かを使った高級品だろう。汚れや傷は一つもなく、明らかにまだ一度も使われていない新品だ。


「ありがとう。椿ちゃんは優しいね」


 白花は手を伸ばすが、それはパシンと払いのけられた。

 椿の手が打ったのではない。椿の背中から生える二枚の黒い翼が、振り向き様に白花の手を打ったのだ。


「勘違いしないで下さいね。ツンデレとかじゃないですよ。私、先輩のことは今でも結構好きですけど、それはペットのカブトムシを好きなのと同じ意味です。先輩って遠くから餌投げて指さして笑ってるのが一番楽しいんですよ。先輩がいなくなったら悲しいけど、近くに飛んで来たら叩き殺します。そんじゃっ!」


 椿は背中の黒翼をバタバタと羽ばたかせた。風圧で蛆が吹き飛んで宙を舞う。そのまま廊下をスイーッと滑らかに飛んで玄関へと去っていった。室内だし歩いた方が楽だと思うのだが、感情が昂ると無駄に翼を使うのは昔からの癖だ。

 この家に来る唯一の来客を見送り、白花は改めて食べかけのチーズケーキを口に運ぶ。


 白花が「蛆憑き」である一方、椿は「吸血鬼」だ。

 とはいっても、別に吸血するわけではないし棺桶で眠っているわけでもない。日差しの下を歩けるし海も渡れる。彼女が持つ吸血鬼要素は、可愛い八重歯とカッコイイ黒翼、それを使った飛行能力で全てだ。

 周囲に蛆が湧きまくるだけの白花とはビジュアル的にも性能的にも雲泥の差がある。吸血鬼の物語は昔から無数にあるが、蛆が主役を務めた物語なんてフランチェスコの実験記録がせいぜいだ。

 とはいえ、だからといって羨ましいわけでもない。それもダイバーシティというやつで、他人の個性を羨んだり妬んだりするのはあまり建設的ではないのだ。蛆虫だって食事を妨害して傍迷惑なばかりではなく、少しは役に立つところもある。


 白花は食べ終えたチーズケーキの容器をビニール袋に入れて口を縛り、ゴミ山の上に置いた。そして、その下に手を突っ込む。

 ゴミ山の中にも大量の蛆が湧いている。蛆とゴミの中をごそごそと漁ると、無数に湧いた蛆が手を囲み、まるでブラシで撫でられているような感触が少し気持ち良かったりもする。


「あったあった」


 ゴミ山の中から水色のパーカーを掴みだした。ほとんど重さのないかなり薄手のもので、網のように透けている。

 上下に振るとくっついていた蛆虫がパサパサと下に落ちるが、何匹かは縫製の凸凹に引っかかって抵抗する。いつもならいちいち指で摘まんで取り除くところだが、今日は椿から貰ったブラシがある。それで蛆を撫でてみる。


「おお!」


 蛆はブラシに押しのけられ、埃を雑巾で撫でるようにスーッと落ちていった。やはり高級なブラシだけあって画期的な浄化性能だ。ほんの数秒でパーカーはすっかり綺麗になった。

 白花はパーカーをワンピースの上に羽織り、姿見の前でくるりと回ってみる。

 思った通り、軽やかで良い感じだ。初夏にちょうど良い。ついでに麦わら帽子も掘り出して、同じようにブラシで蛆を落としてから被ってみた。悪くない。色白でワンピースで夏、ちょっと田舎に行けばサナトリウムヒロインになれそうだ。実際の身体は健康そのものだが、薄幸そうだとはよく言われる。


「ふふん」


 パーカーも帽子もゴミ山の中に放置していたのにも関わらず、臭いは全くしない。それはゴミだらけの部屋全体も同じで、一応チェックのために天井から吊るしている臭気計の針が触れることはない。

 これは蛆のおかげだ。

 原理はよくわからないが、白花の周辺で湧いた蛆が付着したものは劣化しにくく綺麗に保たれる性質がある。ネットで調べたら、蛆は山で動物の死体を綺麗に食べて片付ける掃除屋だとか書いてある記事を見つけたので、きっとなんかそんな感じで汚れも食べているんだろう。

 だから部屋にゴミ山があって常に蛆が湧いていてくれると何かと便利なことが多いのだ。ゴミ山は服や小物を保存する天然のクローゼットになるし、食べカスも埃も髪の毛も全部蛆が勝手に掃除してくれるので、蛆がそこら中にいる以外は清潔な家だ。これでも白花は平均程度には綺麗好きな方で、意味もなくゴミ屋敷を作っているわけではない。

 実際のところ、白花は蛆も蛆が湧く体質もあまり嫌いではない。勝手に湧いてきて主に食卓のビジュアルを最悪にすることだけは困っているが、逆に言えば欠点はそれくらいしかない。


「はい、今からですか?」


 再び玄関が開いて椿の声がした。

 今度はインターホンも押さず、スマホで誰かと通話しながら、またしても革靴を履いたままずかずかと部屋の中に上がり込んでくる。土足で付いた汚れもすぐに蛆が浄化してくれるから別にいいのだが。


「わかりました。本人は今目の前にいます。こいつどうせ暇なんで今から連れていきますよ。ここから管理局までは車で十五分くらいです。そのくらい死なないで待てますよね。はい、じゃあ、そういうことで」


 通話を終えた椿が白花に向き直る。


「先輩、また管理局で例のやつやってくれます? 何でしたっけ、マギーシンジじゃなくて」

「マゴットセラピー」

「そうそう、それです。今電話が来て、この前みたくヴァルタルさんが死にかけてるらしいので、急いで行きましょう」

「調査票はどうするの。急いで書かないといけないんじゃなかったかな」

「ああ、もう今月分は書かなくていいです。そんなの誰も読まないんで無くても大丈夫です」

「さっきと言ってることが違うね」

「臨機応変と言ってください。なんかドレスアップしてますし、もうすぐに出られますね」

「似合ってる?」

「それなりに」

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