映画「ファースト・マン」
時刻は11時40分。50分にはここを出て準備しなくてはいけないので、猶予は後10分だ。
部屋の一辺が鏡になっている控え室の中で、自身を念入りにチェックしていく。プロのメイクアップアーティストにメイクをして貰ったのは今回が初めてだ。あれほど寝不足で目立っていたクマも見事に隠されている。最高の状態だ。肺の底に停滞している酸素を追い出すように息を吐き切った。ついにこの時がきた。9年に渡る努力も無駄では無かったと言える。ポケットから折りたたんだスピーチの原稿を取り出して、もう一度復習する。「このような賞を受賞させて頂き、大変嬉しく思います。ですが、あくまで私は皆の代表である、ということを深く噛み締めております。今日に至るまでにたくさんの犠牲がありました。9年前ーー」頭の中をたくさんの雑音が埋め尽くす。それでもなお、聞こえて来る最愛の娘の声。9年前から変わらない姿が涙腺に優しく触れる。慌てて目頭をこすって鏡に向かうと、唇を一文字に結んだままの男が写っていた。
11時48分。そろそろ移動する時間だ。乾燥を防ぐため、机に置かれたお水を手に取り、口に軽く含ませる。ドアをノックする音が聞こえ、数人のスタッフが部屋に入って来る。
「行こうか」
という言葉を合図としてホールへ向かった。
「何かできることがあれば、なんでも言ってください」
この中で一番下っ端なのだろうか。誰よりも多い荷物を持ったスタッフが言った。
「そうか。では、家族は来ているかな」
「それは分かりません。なにしろ、この人だかりですから」
申し訳ないという気持ちを全身で表したばかりに、両肩に背負ったバックが大きく弧を描いて揺れ動く。
「そうか、ではこのお水を捨てておいてくれるかな」
「はい、よろこんで」
ペットボトルを渡して、肩に手を回す。
「ありがとう。お礼といってはなんだが、代わりにその大きな荷物を持とうじゃないか」
目の前に階段が見えたところで半ば奪い取るようにして、肩に背負った。
「そんな、悪いですよ。私達が持ちますから」
「なに、体を動かしてないと鈍ってしまうものでね」
他の数人のスタッフが静止するのを振り切って、舞台裏へと急いだ。舞台裏では誰もが忙しそうにしていた。怒号が飛び交い、走って移動する者もいる。肩にかかる荷物の重さが、そんな彼らの一部になれたような気がして嬉しくなった。
11時58分。ほとんど一方通行のような薄暗い空間で待機していると、次々に祝福に現れる者がいる。受賞されるのは、まだほんの少し先だというのに。
12時。荘厳な音楽と共に司会の男が軽快なリズムで喋っていく。音楽の響き具合から、相当な大きさの会場だということが窺える。またしても、肺から空気を吐き出していく。今度は、浮ついた自信、驕り、虚栄心、肺の上部に溜まった有毒ガスを丁寧に処理していく。司会に名前を呼ばれる。顔は引き締めたまま、極めて無表情に足を動かしていく。舞台に上がるとすぐさまライトが当たり、全身に熱を感じた。心臓の鼓動を感じるのに心音は聞こえない。歓声や拍手に掻き消されているからだ。舞台には中央に表彰台が設けてあり、そのさらに奥の舞台の端に司会の男がマイクを持って立っている。中央に近づくにつれて目が明るさに慣れてきた。客席には何千、いや何万かもしれない人が集まっている。緊張で顔が固まりながら歩いていると、客席の最前列に見慣れた顔が見えてきた。家族だ。合図をしようと右手を上げ軽く笑ってみせると一層に歓声が湧いた。
「パパ、そのままーー!」
息子の声が聞こえる。緊張具合が息子にまで伝わってしまったらしい。笑顔をキープしろとのお達しだ。例えどんな賞を貰おうと、どんなに偉く着飾ろうと、この会場で一番早くわたしを笑顔にさせたファースト・マンは彼らなのだ。そう考えるだけで、私は、私に、戻っていくのだった。
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