第五一話 異名『今士元』
◆天文十六年(一五四七年)三月上旬 尾張国 那古野城
那古野に帰還したので、早速ブランクを取り戻すために、情報収集と今後の手配について検討していこう。
おれの復帰後の初仕事は、上洛と決まっている。
その後は、駿河(静岡県東部)の今川義元マロとの和議だろうか。信長ちゃんと一緒に駿河に行くのも素敵なプランかもしれないな。
史実の信長は、武田攻めが一段落した後に駿河で富士山を見て、大興奮して狂ったように馬を攻めたという記録がある。きっと信長ちゃんも『よき形の山であるのじゃ』と大喜びしてくれるだろう。
懸案の上洛のルートはどうしよう。昨年秋に一戦を交えた斎藤家の美濃は迂回して、伊勢(三重県)から近江(滋賀県)経由で京都へ行くコースの方が安全だろうな。
ちなみに軍神と称される戦の天才――越後(新潟県)の
もし謙信が女性だったら、ぜひ愛しの信長ちゃんと対決させてみたい。美しさからいえば、まず間違いなく我が信長ちゃんに軍配があがるだろうな。
謙信女性説はさておき、通過ルートの南近江(滋賀県南部)の
戦国時代の滝川一益さんと六角氏には因縁があるのはともあれ、六角定頼には足利将軍家の武力としての働きを期待している。だいたい武家なのに、自前の軍事力を持たない現在の将軍家は、胡散臭いことこの上ない。しっかりと働いてほしい。
上洛に際して十二代将軍の足利
他に美濃支配の名分といえば、信パパが清洲城に美濃国守護の
美濃の名目上トップの頼芸は、斎藤道三に追放されて織田家が保護した経緯があるのだが、道三自身も先ごろ追放されて信長ちゃんが保護しているカオスな状態。
とはいえ頼芸にも道三にも、織田家は安全保障している強い立場。どのようにも操れるだろう。
土岐頼芸には絵を描く才能があって、史実でも彼の鷹の絵には高い評価がされている。頼芸さんには尾張守護の斯波義統と同様に、京都である程度の贅沢をさせて、好きなだけ鷹の絵を描かせてあげたら、織田家にとってプラスになる政治活動も喜んでやってくれそうな気がするぞ。ついでに、鷹の絵を売り払ってお金儲けをするプランも充分ありだ。
他に上洛に際して、どんな準備が必要だろう。京都の明智光秀には、信長ちゃん用のカステーラを買っておいてもらおう。彼女がカステーラを気に入れば、鶏卵食文化を織田領内に広められるだろう。
ぜんざい好きな甘党の信長ちゃんだから、まず間違いなくカステーラを好きになるはず。鶏卵は優秀な動物性タンパク源なのだが、日本では鶏肉ともどもタブーとして避けられてきた経緯がある。
史実でもカステーラやボーロなど南蛮菓子をきっかけに、日本国内に鶏卵食が受け入れられ始めた。若干早めに鶏卵食文化を根付かせれば、栄養状態の改善がされて僅かながらでも死亡率が減るかもしれない。
産業革命以前のこの時代、国力は人口に比例する。死亡率や餓死者数を減らしたり出生率を上げる政策は、地味だけれども非常に大事で、二十年三十年単位できっと後から大きな効果が見込めるはずだ。決して美味しいものを食べたいだけではないんだよ。
ともあれ、諜報衆の多羅尾光俊には外交や謀略のため、いくつか手を打ってもらう必要がある。
まずは今川領内――
『死神左近』も悪くはないけれど、狙われたら命が危ないイメージはあるが、若干知力が足りなそう。もっと参謀やナンバーツーに相応しい異名を広めておきたいんだ。
せっかくならば、後世に後付けされた竹中半兵衛の『今孔明』よりも、格上でなくてはいけないな。
軍師的なイメージとして考えたら、前漢時代の名軍師の
あるいは、三国志で
『今士元』だと戦上手の知恵者という雰囲気が出るかも。政治力が高いイメージの諸葛孔明よりも、かえってハクがつくかもしれないな。
さきほどから左近屋敷のこたつで、ヌクヌクとリラックスしている信長ちゃんにも聞いてみよう。
「姫、いましげんってどうですかね?」
「ん……ふにゃ。京で手に入る南蛮渡りの菓子であるなら、食べたいのじゃ……」
だめだ、完全に寝ぼけている。お菓子じゃないけど、まあいいだろう。光俊には異名の今士元の噂を広めておいてもらおうか。
その他謀略関連では、近江の浅井家臣で金に困っているヤツと旧型の鉄砲の確保だ。そいつには悪いけれど、織田家の
もちろん実際に狙撃はさせずに、ただ、空に向かって発砲してもらえればいい。浅井領内を通っているときに、発砲があった事実だけが必要なのだ。これで名分というか、言いがかりで浅井にケンカを売るつもり。最低でも交渉で
なんといっても今士元だからな。目的のためには、汚い手段でも断じて取らせてもらう。事実であろうがなかろうが構わない。ないものをあることにしてしまうのが、謀略ってものだからな。
長い軟禁中に、おれの心境が変化してきたみたい。生ぬるい考えでいれば、それこそ命取りになってしまう。戦国時代はスキを見せたら命取りで、食うか食われるか。
おれの――そして信長ちゃんの有利になるなら、どんな悪辣な手段を取ろうとも、未来知識を最大限に活かしてやるんだ。
そんな悪どい計略を実行しようと、諜報衆頭領の多羅尾光俊を呼ぼうと思ったところ、タイミング良く彼の方からやってきた。
「左近殿、至急お耳に入れたい件が――」
急ぎの要件であろうと、光俊はいつもの仏像スマイルで、慌てた様子もなく信頼ができる男だ。何ごとだろう。
「
「ええ。稲葉山城(岐阜城)からの急な知らせで、斎藤新九郎(義龍)が昨夜死んだ由にございます」
光俊の情報によれば、昨年秋の長良川の合戦時に受けた鉄砲傷の予後が悪かったようだ。火縄銃の弾丸の初速は、実は現代の拳銃より速く、当たれば威力は相当に強い。しかも、直接的な負傷はさておき、抗生物質が存在しないため感染症による死因が多かったようだ。現代日本のテレビドラマで有名になった
史実で三五歳の若さであっさりと歴史の彼方へ退場してしまった斎藤義龍は、やはり歴史の流れで大きな誤解をされていた男だ。父道三からの評価は決して高くなかったが、クーデターの際に殆どの斎藤家重臣を掌握していたし、その後の統治も及第点以上だし相当に優秀だ。
尾張をなんとか統一した史実の信長は、一五六〇年に桶狭間合戦で今川義元を破って東の安全を確保してから、美濃の稲葉山城を奪取する一五六七年まで七年も掛かっている。しかも結局、義龍の存命中に美濃を攻め取ることができず、義龍の死後に幼い
その事実からも、義龍がいかに信長の強敵だったかが分かるだろう。
史実の信長の越えられない壁だった斎藤義龍が、既に死んでいるとなれば話は違う。なによりも最優先で美濃を獲るための謀略だ。当主が死んだばかりの混乱に乗じて、先手必勝に限る。
京都でのデートを楽しみにしている信長ちゃんには悪いけれど、もちろん仕事が優先課題だから後回しだ。ただ、光俊が義龍死去の情報と同時に、もうひとつ有力情報を入手してくれている。その情報を利用しての近場デートで勘弁してもらいたい。
――かねてから左近殿が探していた男が
史実でその男はとても優秀だが、信長死後の行動は織田家にとっては決して褒められたものではない。もちろん、彼の人となりに興味は尽きないけれど、どのように処遇するかは悩みどころだ。
人物鑑定に定評のある信長ちゃんが、彼をどのように見立てるかも非常に興味が湧くぞ。
「姫、斎藤新九郎(義龍)が亡くなったので、京より先に美濃への手立てが必要です」
「で、あるか。なんと、新九郎殿がなあ。京でのでえとはやむを得まい。美濃が落ち着いた頃であるな」
光俊の気配を感じてか、すっかり信長ちゃんも仕事モードになるが、さすがに落胆の色は隠せない。
「代わりと言ってはなんですが。姫、明日は動物を見に行きませんか?」
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