第四一話 はじめてのチュウ
◆天文十五年(一五四六年)三月中旬 尾張国 那古野城
――祥姫との一夜の翌日。
後悔の念で一杯だった。いくら容姿や口調がそっくりで、禁欲生活を続けていたとはいえ、信長ちゃんとは別人の妹ちゃんに手を出してしまったのだから。これからどのように信長ちゃんに接しようかと思うと、頭を抱え込んでしまう。
現実逃避だけれど、今後に向けて手配ををしていこう。
尾張を統一した結果、差し当たっての敵勢力は存在しない。とりあえずの戦略は、尾張と三河の国力増強だ。そして、対外的には積極的には攻勢にはでないものの、将来
史実で尾張統一した後の、信長の戦略を思い出して――。
なんとか昨晩の出来事を頭から追いやって、仕事に集中していたところ、不意に声がかかった。
「さこん、岡崎の
信長ちゃんが、客間の入口で手紙を
いつもなら盛大に足音を立ててやってくるのだが、信長ちゃんはいつの間に来ていたのだろう。
気まずさが一杯でどうしようもないけれど、彼女の表情から察すると『浮気』がバレた様子ではない。
「なるほど、拝見しましょう」と手紙を受け取る。
「うむ。ワシは昨日の岩倉の戦で疲れたのであろう。いささか調子が優れぬため、休んでおるのじゃ」
にこりと笑顔を残して、信長ちゃんは静かに立ち去っていった。
後ろめたい気持ちなので、彼女が甘えに来たのではなく、早々に戻っていったのは正直なところ助かった。
だが待てよ。
普段なら手紙を渡す程度の用事ならば、近習の誰かに頼んで事足りていた。しかも
それに、行軍に疲れていて休むつもりなのに、なぜかおれのとこに来た。
――まさか。
祥姫との関係がバレて、おれの様子を見に来たのか?
勘の鋭い信長ちゃんだ。
祥姫の様子から、おれとの浮気を察したのかもしれない。
だが、信長ちゃんなら『ワシのことを好いていると言ったのに話が違う』と激怒するはず。
どうすればいいのだろう。
もしかすると、祥姫と結婚した方が万事うまくいくんじゃないか。
――だがしかし、本能寺の悪夢へ続くのが運命なら、恋仲になるのはどう考えても祥姫でなく信長ちゃんだ。
どうする? もう諦めて白状した方がいいのかもしれない。
そんな考えがよぎって、頭を抱え込んでしまった。
◇◇◇
ところが、夜になって祥姫が屋敷に来ると、断ろうと思っても断りきれない。
彼女もずいぶん慣れてきたのか、当初は緊張した面持ちが多かったが、満面の笑顔を見せることが多くなった。
仕草や表情が信長ちゃんそのもので、身体がはっきりと拒絶できない。
『姉上に仕えるのは、大変なお役目でしょう。たまには心安らかに……』
と抱きしめてきたり
『私でなく姉上なら抱いてくださいますか?』
など慎ましやさを見せる。
かと思えば
『さこんに斯様に抱かれると、比類なき心地よさなのじゃ』
信長ちゃんモードで甘えてくる。
以降流されるままに、数日おきに来訪する
「信長ちゃんと似すぎているのは罪だろ」と身勝手な悪態をついても始まらない。
どこをどう見ても浮気だよな、と気まずさで一杯だ。今後の方針について打合せしなくてはいけないのに、信長ちゃんをまともに直視できないのである。
仕事をしている最中に信長ちゃんがやってきて、横に座って問いかける。
「さこん? ここしばらく具合が悪そうだが、
くっ。心が痛んで具合が悪いのは確かだ。当然ながら様子がおかしいと思われるだろう、と考えていたが案の定。やっぱり信長ちゃんは鋭いよな。
「少々、頭が痛みます」
本当だった。後悔の念が一杯で頭が痛く具合は悪い。
「それはいかんぞ。さこんは今日は早めに休むのじゃ。分かったか?」
「はっ! 失礼させていただきます」と答えるのがやっとで、早々に自宅屋敷に戻った。
がたっがたっ……だーんっ!
そうして自宅に戻って床についていたところ、嬉しくも気まずいことに、信長ちゃんがやってきた。
「さこん? 具合はどうじゃ?」
この浮気男を心配して来てくれたわけだ。申し訳なさで一杯になる。
「さこんの具合が悪ければ、ワシも
信長ちゃんは、寝ているおれの横にちょこんと座ると、額に手を当てて、
「熱はそれほどでもないようじゃ」
あくまで身体の具合を心配してくれている。こんな浮気者でごめんなさい。
「さこん、ワシの目をしかと見るのじゃ!」
信長ちゃんは鋭い口調。
まともに直視できないのだが、何とか信長ちゃんの表情を覗うと、少し不安げな感情が読み取れた。
どう考えても浮気がバレているだろう。相手は鋭い信長ちゃんだ。
『おのれ! 左近! ワシを
こんな感じになるのかな。でも悪いのはおれ。文句はいえません。
ところが、信長ちゃんは至って静かな口調だった。
「どこぞの
情を交わす、って
完璧な正解来ましたッ! 女性の勘は鋭く浮気は絶対見抜かれる、などと聞いた覚えはあるけれど、本当なんだな。恐れ入りました。
「おれは……そ、その……」
おっと。口篭ってしまった。
どう考えてもイエスと言っているだろう。
そもそも、勘が鋭い姫で上司で彼女(仮)の信長ちゃんに、ごまかしが通用するわけがない。万事休すか。
進退
逡巡しているうちに、信長ちゃんがつぶやくように
「ふふふ。図星のようだな。だが左様なことがあったとしても、半ば以上はワシのせいでもあるのじゃ」と静かに声をかけてきた。
ん? 信長ちゃんせいとは、どういう意味だ。分からない。
「姫のせい、とはいかなる意味で?」
いまさら浮気を誤魔化しても始まらないので、信長ちゃんの真意を知るしかない。
「さこんは、ワシの立場や今後の戦や、
はい。当然分かっていて、信長ちゃんとの付き合い方には、慎重にならざるを得ない部分はある。
「もちろん、おれは姫の立場や今後の事は気になります」
「ワシも若き男の気持ちの
「許すも何も。おれの方こそ、そ、その……あの……」
思ったよりも彼女の態度が柔らかいので、少し安心する。だが、またしどろもどろになってしまう。
「もうよい、言わずともよいっ!」
おや? これはなんとか許してもらえたのかな?
――思ったのも束の間。
「だが! 許さぬッ!」
語気を荒げる信長ちゃんだ。
やっぱり浮気ですから。簡単に許してくれるわけがないよな。
ところが、信長ちゃんは言い放つと、横になっているおれに、覆いかぶさって首の後ろに腕をまわして抱き寄せて、唇を合わせてきた。
間違いない。祥姫でなく信長ちゃんとキスをしているんだ。見た目とほのかに感じる体臭は祥姫と同じだけれど。
嬉しかった。この時代に来て最高の嬉しさと満足感を覚える。
「さこんは、その
「う、は、はい……」
ついに自白させられちゃいました。まあ既にバレバレだから、いまさら何を言っても始まらない。
そんなおれの考えをよそに、信長ちゃんは更に強くおれを抱きしめて、またキスをしてきた。愛情が溢れていて嬉しくてたまらない。
祥姫といい信長ちゃんといい、織田家の女性には美女属性以外に、大胆属性もあるのかよ、などと思ったりもしたが、幸福感が何をも上回っていて、きっと呆けていたのだろう。
気づけば彼女は、おれを見下ろしてニヤニヤしてる。
「さこんはその女子と
おれは自分の気持ちを思い出して、信長ちゃんを強く抱き寄せる。今度はおれが大胆にキスをした。
「いえ。その女子とではなく、姫とこのようにラブラブしたいと思っていました」
信長ちゃんを見ればふうーっ、と大きく息を吐いて、再びおれを見下ろしている。
表情は割と穏やかだ。
「うふふ……なるほど。ワシの代わりに、その女子と斯様にらぶらぶであったと」
そうつぶやくと、またキスをしてきた。
――更に情熱的に。
「はっ! おれは姫のことだけを考えておりました」
正直に答えるしかない。
「それにな。ワシもさこんとらぶらぶしたいと思っておったのに、思うまま振る舞えぬことが心苦しかった。だから、左近はもう気に病まずともよい」
信長ちゃんおれを抱きしめて「うふふ……らぶらぶなのじゃ」と微笑む。
「ええ。おれも姫にラブラブです」
「で……あるか」
満面の笑みの嬉しそうな彼女を見て、実も情けもある素敵な
信長ちゃんにふさわしい
そう強く願った。
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