第二九.五話 平手政秀の策略【織田信秀】
◆天文十四年(一五四五年)十月六日 尾張国 古渡城 織田信秀
先ほどまで目の前にいた若武者のことを考える。
数日で、長年ワシが苦慮していた尾張と三河の問題を解決しおった。面白い……面白い男だが、手を打たねばなるまい。
腹心中の腹心の平手
「中務、半ば予想通りであったな」
「左様ですな」
中務も苦笑している。左近が吉の妹との縁談を断ることは、二人ともある程度は想定済みだったのだ。
「それにつけても、あやつは今
「
「大和(織田信友)を葬り去った策よ。吉とともに献策しおったが、左近の入れ知恵もあるだろうな」
「おそらく」
我が娘の
恐るべき知恵者には、鈴を付けねばなるまい。
「吉のこともある。良策を立てよ」
中務がしばし沈黙する。
「…………」
しばしの沈黙の後、我が懐刀が顔を上げた。おそらく策の詳細を検討して勝算を見極めたのだろう。中務はどのような策を立てたのだろうか。
「中務、知恵で左近に勝てるか?」と、
「知恵勝負では負けるかもしれません。ですがわしには経験があり、左近は若いゆえ五分五分かと」
既に白髪となって久しい腹心が、静かな笑みを浮かべている。長年の付き合いなので、勝算充分の顔つきだとはっきり分かる。
「五分五分か。ならばやる価値もあろうな」
「策を
「無論だ。長き目で良き策ならば、弊害も併せ吞もう。幸い二人の働きにて余裕もある」
「されば、お耳を拝借いたします」
中務があの男に対する策を伝えてきた。さすが、織田家の外交と謀略を長年取り仕切った中務だ。我が
悪くない。悪くはないが、懸念がある。
「吉はどう思うかな?」
「苦しみましょうが、吉姫様は
「うむ。結果的に中務の策が、将来の吉のためでもある。吉はまだ十二歳だ」
「ええ。吉姫様の将来のためを思えばこそ、心を鬼にいたします」
「そうだな。策を進めよ。中務と左近の知恵比べだ。見ものよ」
「では、早速一手目を打ちましょうぞ」
中務がニヤりと笑う。勝算充分ということだ。
「無論、吉の意向も聞いてからだぞ」
「
「たいした自信だな」
「わしも長年、
中務の眼がキラリと光る。
「頼むぞ!」
「はっ!」
◇◇◇
策を持ち帰った中務が那古野に戻ってから、一刻(二時間)ほどして、吉がやってきた。
初陣では考えられないほどの功名をあげた娘。何やら目つきが以前とだいぶん異なる。良い経験をしたのだろう。
だが、中務の策によるものか、心に迷いがあるようだ。
「三郎、よくぞ参った」
「お呼びとのことで」
「安城の戦の
ゆえに、那古野城を任す。併せて新たに四万貫(八万石)を遣わすゆえ、見事治めてみよ」
「はっ! 過分な恩賞、
心が乱れているはずなのに、普段と変わらぬ対応をしようとしている。強い子であるな。吉を那古野城主とするのは、平手中務とも打ち合わせて決めていたこと。家中での吉の序列を高めるためでもある。
問題は中務の立てた策だ。吉は、本当に納得してくれたのだろうか。
「して、中務から聞いたであろう。いかがか?」
「承知した。承知したのじゃが……」
平手中務の策を、娘は承知してくれたか。吉が前言を翻すことはない。ならば、あとは中務の手並みを拝見だ。
「うむ。よくぞ申した。ワシも
「……」
吉の気持ちが滝川左近に向いているのは明らかだ。しかし、所詮は子どもの恋
「だが、
「はっ!」
「ヌシの将来のためでもある」
「わかっているのじゃ。頭ではわかっているのじゃが……」
「そうだな。ヌシはワシの自慢の賢い子だ」
「か、
言い放つと、嗚咽を始める。娘が泣くのを見るのは赤子の時以来ではなかろうか。
大粒の涙が何度も床に
『吉、すまぬな……』心の中で声をかける。
このような場合、感情の赴くまま泣くがいい。
四半刻(三〇分)ほど経っただろうか。
「父上!」
はっきりした口調だ。さまざまな感情の整理がついたようだな。本当に強く頼もしい。
「うむ」
「ワシにも良きことであるゆえ、もう泣かないのじゃ!」
「感謝するぞ、吉」
「はっ!」
目の周りを赤くしながらも、娘は無理して笑いを返してくる。
「大儀であった。下がってよいぞ」
辛い決心をした我が娘に優しく声をかける。
また一つ成長したな。
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