時を刻め
紅音こと乃(こうねことの)
第1話
目の前にある純白の小箱。半年前に大枚をはたいて買った、指輪が収められている。いわゆる婚約指輪という代物だ。
孝介は、深く、ゆっくりと深呼吸した。
付き合って5年になる
重い腰を上げて、部屋から漏れる光を頼りに、コップ一杯の水道水を一気に飲み干した。
こんな優柔不断で不甲斐ない男からのプロポーズ、彼女は受け入れてくれないかもしれない。そんな甲斐性があったのかと、呆れられるかも。
いやっ、と、大きく首を横に振った。
大丈夫だ。美弥子は、きっと喜んでくれる。「遅いわよ」と、はにかみながら指輪を受け取ってくれる。だいたい、愛想つかされてるなら、もっと前に捨てられていたはずなのだ。なんの心配もない。自信を持て。
ポジティブとネガティヴを繰り返しながら、孝介は両手で思いっきり頬を叩いた。
「男だろ、覚悟決めろよ」
時計の針は、美弥子の仕事が終わる時刻に差し掛かろうとしていた。
今度は後戻りできない。美弥子が、いつも行きたがってたカントリー風のレストラン。理由を説明し、窓ぎわの席を予約しておいた。当日は軽くワインなど飲んで、ふたり楽しく食事をする。その後、レストラン自慢の庭園に出て指輪を渡すのだ。孝介なりの完璧な計画。
孝介は小箱を宙に差し出し、目を閉じた。
「美弥子。結婚して下さい」
掛け時計が、時を刻む音がする。孝介を嘲笑いながら、バイクがアパートの前を走り去って行った。
孝介の手が、だらりと落ちた。シミュレーションしただけで、胸が早鐘をつく。今、水を飲んだ喉が、もうカラカラだった。
あとは日時を決めるだけだ。孝介は携帯電話を手に取った。
1コール、2コール。なんて長く感じるのだろう。3コール。
何度目かのコールの後、慌てた様子の美弥子が出た。
『ごめん。すぐに、でれなくて』
人目を気にする様な、くぐもった声が、耳元で囁く。
『どうしたの?
最近、美弥子が孝介の部屋に泊まったのは、4日前になるか。
指に絡みつく漆黒の髪。ぷるっとした紅い唇は、孝介の隣で吐息をもらす。細く、しなやかな白い四肢が反るたびに、理性が飛んでしまう。
孝介は、自分は好色だと思ってないが、美弥子のことになると
思わず小箱を持つ手に力が入った。
「あのさ、今、時間ある? ちょっと相談したいことがあるんだけど」
『えっ、今?』
明らかに、困惑する声が返ってきた。
『今じゃなきゃ、だめ?』
そうだ。ここで話さなければ、また、先延ばしにしてしまいそうだった。
「できれば」
携帯電話の向こうから、ほんとうに困った美弥子のため息が聞こえた。
『孝、おととい言ったんだけど。私、今夜は』
言葉に詰まる美弥子に、孝介は、ああっと思い出した。そうだった。今夜は美弥子の職場の同僚が寿退社するとかで、送別会があると言っていた。
「あっ、そうか」
緊張していた糸が切れるように、一気に身体から力が抜けた。
「今日だっけ。ごめん、忘れてた」
『もう。近頃、ぼうっとしてることが多いんだから』
ふふっと笑う美弥子の周りから、人の歓声が上がった。
「賑やかだね」
『そうね。人の幸せを口実にした、鬱憤ばらしだもの。結婚式当日は、どうなるんだろう』
冗談めいた口調で話す美弥子に、つられて笑みが零れた。
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