50「くる」

 

「非は、私にある」

 予想に反し、そう自分を責めたのは岡本さんではなく、長谷部さんだった。長谷部さんは岡本のさんの傍らで地面に両膝をついたまま、涙を隠すように両手で顔を覆った。

「何かうまい話はないかと岡本さんを頼ったのは私なんだ。先祖代々が築き上げた私財の上に胡坐をかき、それまでまともな仕事についてこなかった私にやれる事など今さら、それこそ犯罪まがいの事しか残っていないよとこの人は笑って突っぱねた。その彼を、私が巻き込んだんだ」

 余計な事を喋るんじゃない。

 そう強く言うものの、岡本さんに先程までの勢いはなく、手を挙げるでも足蹴にするでもなかった。長谷部さんは力なく岡本さんを見上げ、そしてその視線を文乃さんへ移した。

「文乃ちゃん。君には申し訳ないことをしたと思う。どうかしていたんだ。本当にすまない」


 ……ふざけんな。


 そう呟いたのは、僕でも文乃さんでもない。となれば、辺見先輩だろうか?

 しかし僕の目は岡本さんを睨み続け、その他一切が視界に入らなかった。

 すまない。申し訳ない。

 そんな言葉に一体なんの意味があるのだろう。三神さんの語った推測が全て正しいのであれば、長谷部さんと岡本さんの計画は当初、文乃さんただ一人をターゲットにしていたことになる。彼女が池脇さんや三神さんを頼り、幻子が僕らを遠視する事など彼らが知りえた筈はないからだ。

 それを殺意と呼ぶべきかは分からない。だが彼らの杜撰な計画の中で、マンション住人以外の犠牲者として二人が想定していたのは、何を隠そう文乃さんだけだったのだ。しかし、その文乃さん本人は、言う。

「初めからすべてを洗いざらい仰っていただけていれば、もう少し違った形でお力添えが出来たのかもしれません。それだけに、とても残念です」

 この期に及んでも、まだ?

 どこまでも情け深い文乃さんの言葉に、僕の胸は穴が開くほど強く抉り込まれた。


 パアン!


 三神さんが両手を打ち鳴らし、さて、と言った。

「あるべき姿へと戻そうか。少し長くなりすぎた」

 あるべき姿とはなにか?

 岡本さんが焦った様子で、一歩前へ踏み出した。右手を自分の胸に当て、

「ま、待て、私にかけた呪いとやらはどうなる!」

 と声を荒げた。「こちらは非を認めたんだ!解いてくれるんだろうな!」

 三神さんは狡猾な笑みを口端に浮かべて、片眉を下げた。

「これはなんとも、異なことを……。非を認めただって?馬鹿言っちゃいけませんな。ワシは初めに断りを入れておいた筈だ。話は全て推測を申し上げただけであって、あなた方お二人の口から何か一つでも真実を聞いたわけではない」

「謝ったじゃないか!」

 長谷部さんを指さしながら、岡本さんは唾を飛ばして言った。「そうだ、あんたさっき、一つ頼み事があると言ったな!それを聞こうじゃないか、それを叶えたら、呪いを解いてくれるんだろ?そうだな?」

 なるほど……。

 岡本さんの身勝手な言い分にも三神さんは微笑んで頷き、指先で顎をさすった。

「確かに、ワシは頼みがあると申し上げた。だが岡本さん、その頼み事を聞くということが、すなわち呪いを解くという事にはつながらんのですよ。ワシの職業上の肩書は拝み屋だが、やってる事はほとんどまじないの類だ。あなた方も人生で一度や二度は経験があるんじゃないかな。おまじないというやつだ。……そう、おまじないとは、おのろいと書くんです」

 岡本さん達への怒りで立ち眩みを起こしそうだった僕でさえ、三神さんのその言い方は怖かった。いつもニコニコと微笑みを浮かべて軽妙な語り口で周囲を気遣っている、優しい拝み屋。そう、彼はかつて天正堂という名の拝み屋集団の最高位に君臨していた、最凶の呪い師なのである。

「どういう意味だ……」

 吐き捨てる岡本さんを真っすぐに見据え、三神さんは右手を挙げて岡本さんの胸を指さした。

「三神さん、やめましょう!」

 文乃さんが一歩前へ出て声を上げると、彼女の言葉を引き金にして、岡本さんと長谷部さんの顔が恐怖でグニャリと歪んだ。

「ほら」

 三神さんは言う。「あるべき姿へ戻そう。おお、もうそこまで来てるじゃないか……。くるぞくるぞぉー、あんたらが自分へ向かって掛けた呪いが、ッハハァ! 今ここにこうして戻って来ておるぞぉ!」

 待ってくれ!頼みとはなんだ!まず先にそれを言え!

 岡本さんの悲痛な叫びはしかし、三神さんの放つ小さな呟きに消し飛ばされた。


「ワシのまじないを受けろ」


 やめてくれェ!

 岡本さんと長谷部さんが同時に絶叫する。

 その時、それは突然やって来た。

 僕の側で、地の底から吹き出すような勢いであの地獄の腐臭が顕現する。ところが悪臭は一瞬にして立ち消え、と同時に、僕の側にはいた存在までもが消え失せた。僕の傍らにはつい今しがたまで、辺見先輩が蹲っていた……はずだった。

 岡本さんは、何度も後ろへ下がろうとしていた。

 それ以上後ろへは下がれないのに、本能が、自分の背中と管理室の扉に隙間を作ることを拒んでいたのだ。だが彼は、三神さんのまじないに耳を貸すうち、焦って一歩前へ踏み出してしまった。ほんの一歩。その一歩と背後の扉の隙間に。

 ……辺見先輩が立っていた。

「いつの間に」

 それは三神さんですら予想しない展開だった。

 断末魔のような悲鳴を上げて、岡本さんと長谷部さんが手で口鼻を覆った。そして辺見先輩が二人の肩に両手を置いた途端、彼らは口鼻から一斉に大量の吐瀉物を巻き散らした。

「いかんいかんいかん!」

 三神さんが駆け寄ろうとするも、ほんの三メートル先は地獄の圏内だ。さしもの三神さんでさえ体を震わせて躊躇いを見せた。

「んんんん、間に合えよゲンコォ……」

 しかしそう言うが早いか、三神さんは地獄へ飛び込み、長谷部さんと岡本さんに駆け寄り彼らの胸に手を当てた。すぐさま、三神さんは膝から崩れ落ちた。

「三神さん!今行きます!」

 後を追いかける文乃さんを、僕は後ろから羽交い絞めにして止めた。

「いけません文乃さん!死んでしまいますよ!あなたの体はもう!」

「新開さん離してください!彼らだけではない、辺見さんも、今は囚われの身なんです!」

「例えそうでも!僕は!」

「後悔しますよ!大切な人を救えなかった後悔は、一生消える事がありません」

「それでも僕は、あなたに行ってほしくないんです」

 前へ進もうとする文乃さんの足が止まった。

 僕は彼女の体を抱きしめていた腕を解き、並んで横に立った。


「僕が行きます」



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