31「侵入」

 僕には、母の記憶がない。

 僕を産んで間もなくこの世を去った母の事を、父からほとんど聞かされた事がない所為だ。

 今にして思えば、母は僕をこの世に送りだす事と引き換えに寿命を差し出したのだろうし、父に大切に育てられたと思う反面、彼が思い出を語ろうとしなかった背景には、心の奥底に沈殿したまま捨てきれない僕への憎しみがあるからだろうと推測できた。母を愛した記憶を呼び覚ますということはつまり、眠っている心の傷を無造作にかき混ぜて表面化させる事と、結局は同じだからだ。

 母の名前が『よりこ』である事は、何かの拍子に聞いた。一度だけ母の生前の写真を見たことがある。しかしそれとて小学生の頃、父が仕事でいない隙を狙って部屋に忍びこみ、当時仲の良かった友人と共にエロ本を探していた時に偶然見つけてしまっただけで、背徳感以外の何物をも僕の心にはもたらさなかった。

 その写真に映っていたのは僕の知らない女性だった。だが僕はその時見た写真の女性を母だと直感したし、と同時に、これは見てはいけない物だったのだという後暗い気持ちにもなった。

 もしかしたら、父の方から進んで見せてくれていれば、その後の僕の中に「母の姿」が明瞭なシルエットを伴って形成されたかもしれない。しかし父は僕にその写真の存在を明かすことはなかったし、ベッドサイドテーブルの小さな引き出しに仕舞われていたその写真を、僕は二度と見る事なく今日までを過ごしてきた。

 その点で、僕は鬱屈していると言えるのかもしれない。度々父の目を盗んでは、その写真を見る機会などいくらでもあったからだ。それでも僕は父の嫌がることをする気にはなれなかったし、たった一枚の写真を用いて母を偶像化し、密かな愛情を心の中で育んでいく自信が当時の僕にはなかったのだ。

 だから、今更になって、その写真の女性が文乃さんと酷似しているのではないかと聞かれても、僕には分からないのだ。

 だが一つだけ言えることがある。

 もし、そうであるならば。

「もし、そうなら……。僕は、嬉しいです」




 その時だった。

 涙に濡れた両目を引き裂く程に大きく見開き、辺見先輩がビーンと背筋を伸ばした。

 そして同じく椅子に座っていた文乃さんが反射的に立ち上がり、両の拳を握りしめた。僕にはそれが、彼女なりの臨戦態勢に見えた。文乃さんは体ごとゆっくりと振り返り、歯を食いしばって医務室の外を睨み付けた。物腰の柔らかい普段の彼女からは想像もつかない形相である。

 文乃さんの視線の先にあるのものはおそ、く、辺見先輩の携帯電話だ。

「あれ……は」

 あえぐような声が、辺見先輩の口から漏れ出た。

 医務室の両端には出入り口が二つある。一般的な学校の教室と同じ作りの、スライド式のドアである。そしてそのドアにははめ込み式の擦りガラスが設えてあり、灯りのついていない廊下の暗がりが透けて見えている。……筈だった。

 そこに、何かが立っている。

 廊下の明かりは点灯していない為、何かが見える以上、摺りガラスのすぐ向こうにそれは立っている事になる。横を向いているのだろう。ボサボサの髪が大きく膨らみ顔の上半分を覆っており、男女の識別は不可能だ。だがおそらくその何かは、そもそも人ではない。

「痛たた、痛いー、痛いっ」

 立ち上がった辺見先輩が、透明なロープに締め上げられるような態勢で身を捩った。窮屈そうに腕を縮こまらせ、首をグウっと上に伸ばしている。手首から先をしきりに動かしているが、僕にはそれが痙攣に見えた。

「先輩!……文乃さん!」

 扉の向こうに何かがいるのは僕にも分かる。感じるし、見える。しかし辺見先輩のように、もがき苦しむ程の霊障を受けているわけではない。文乃さんを見やる。僕はまた守られているのか? いや、もしそうなら彼女は僕だけでなく、辺見先輩も同様に守ってくれるだろう。だがその文乃さん自身も、到底平気だとは思えなかった。

 自分のへその前あたりで両手を交差し、ブルブルと震える程強く拳を握って立っている。驚くべきことに、文乃さんの両目が真っ白く裏返っていた。

「お・も・い」

 文乃さんの口から老人のような、低くしわがれた声が発せられた。

「お・も・いいい……」

「何が重いんですか!文乃さん!文乃さん!ふみ…」

 手を差し伸べた僕の目の前で、ゆっくりと、文乃さんが両足を開いた。肩幅に開いた足で踏ん張るように立ち、交差した拳に更なる力を込めて体を沈み込ませる。


 ンンンーーーーーーー…


 深い地の底から響いて来るような声とともに、文乃さんの髪の毛が逆立った。


 ウウウーーーーーーーーン!


 声を発しているのは文乃さんに間違いない。しかし白目を剥き、鬼気迫る彼女の唸り声に、僕の緊張は高まり続けて身動き一つとれなかった。

「新開、君……」

 辺見先輩が言う。

 見れば先輩の髪も逆立ち、何かに締め上げられるような、いや、押し潰されるような圧力に耐えるように苦悶の表情を浮かべている。


 ……天空を駆け行く星線となる、赤き半身、愛なるすべて。その一歩をして嘆きなどなし。


 文乃さんが詩を呟き始めた。呪文の詠唱のように連なるその声ともに、彼女の身体が小刻みに震え続ける。そして静電気を帯びているのかと見まがう程に、文乃さんの髪の毛がひとりでに細い毛束を作り、ひとつ、またひとつと天井へ向かい立ち上がって行く。

「導きたまへ、銀色の……」

 文乃さんの声が止み、白く濁った眼が睨むように外の廊下へと向けられた。

 突如耳をつんざくような音とともに、医務室の扉が激しく殴打される。

 人とは思えない大きさの手の平が、擦りガラスに押し当てられるのが見えた。髪の毛なのか蔦なのか、濃緑色の何かが無数に絡みついた黄土色の手が、ぬめりと蠢いた。

 カラカラ……。

 扉が横へスライドし、悪臭が、ついには医務室の中にまで侵入してきた。


「シンカイクン。……シンカイ、クン」

 辺見先輩が僕の名を呼び続ける。

「辺見先輩、……僕は一体どうすれば!」

「来てるよ。君の後ろに」


 僕の背後から誰かが飛び出した。しかしそこには誰かと呼べる実体はなく、気配と残像だけを残して熱量のある突風が僕の目の前を直進し、医務室の扉に激突した。途端、擦りガラスに押し当てられた巨大な手が退き、僅かに開いていた扉が、閉じた。


「フウウウウ…」

 大きく息を吐く文乃さんの口から、白い煙のような物質が立ち昇るのが見えた。文乃さんはさらに低く腰を落とし、呟くように言った。

「か・え・れ」

 彼女の身体を中心にして、ドーム状の空気が物凄い勢いで膨張したのが見えた。その空気は赤味を帯びた黄金色をしており、膨らみが大きくなるにつれてその色は薄くなっていく。

 やがてそのドームは一瞬にして医務室以上の大きさにまで膨らむと、扉のすぐ向こう側にいた恐ろしいナニカをそのままこの建物の外へと弾き飛ばし、そして最後にはもろとも消えてなくなったのだった。



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