一章 邂逅。そして問題発生。 その2

「犯罪者を殺して、一般人を解放して。まるで義賊みたいね」 

『誰か来――』

 乱雑に通信機の電源を落として声へと向き直る。聞いたことのない女声だったが、真偽を確かめることはできなかった。視線の先、声の主と思われる彼女が深々と灰色のフードを被っていたからである。下は黒のデニムに十センチ以上の厚底ブーツ。特定できるほどの個性もなければ、格も感じられない。溜息を吐くには充分過ぎた。

 フードの女は新しい玩具を見つけた幼児のように嬉々として、

「こんばんは。ようやく会えた。私はさっきの雑魚たちとは違うから安心して」

 無言と呆れの籠った視線を彼は返す。それでも彼女の声音が沈むことはなかった。

「わかったわよ。これでどうかしら」

 瞬間、彼女を中心に周囲の空気が沈んだ。

 肌を焼くような痛みが全身を駆け抜け、遅れて鉛のような重さが訪れる。身体の自由が利かなくなる感覚は水中のそれに近いかもしれない。決定的に違うのは、引き起こしている要因が本能的嫌悪と畏怖であることか。

 幾つもの死地を乗り越えてきた証明であり、実力を示すひとつの指標バロメーター

 それは純粋な殺気。

 耐性のない者は死の危険さえ覚えかねない代物。

 にも拘らず、彼の顔に驚愕の色が浮かび上がることはなかった。それどころか欠伸しかねないほどの気怠げな表情を浮かべてすらいた。

「なに? どこかかおかしいことが――」

 言葉も半ば、彼の周囲の空気が同等以上に沈んだ。

 フードの彼女は口笛を鳴らす。

「さすが殺人王」

 彼は鼻を鳴らした。紅蓮の短髪が僅かに揺れる。

「釣れないわね、そんなに興味ないかしら」

「雑魚に構っていたら日が明ける」

「この一連の人身売買、私が親玉だとしても?」

 眉が動く。初めて興味を示したことが嬉しかったのか、彼女は仰々しく手を広げた。

「証拠ならもうすぐ来るわ」

 途端、出入口の扉が勢いよく開かれる。現れたのは先ほど逃げ出したはずの女性、

「ぐぎギぎィ」

 ――に似た獣だった。

 首筋を始点として太く膨張した血管が至る所に走り、食い縛っている口元からは唾液の泡が溢れていた。首輪の周囲の引っ掻き傷からは血が流れ出ており、白無地のシャツはすっかり紅に染められていた。

 口端の泡を吹き零しながら女性だったソレは、果物ナイフを構えた。

「もういい」

 胸元に斬撃が走ったのは、直後のことだった。

 鮮血を吹き出しながら崩れ落ちる元女性の横に、彼は軽い足取りで降り立つ。赤い液体を浴びた紅蓮の髪はさらに明るさを失い、濁りを増していた。

「お前はもう死んだ」

 呟いた言葉は虚空へと消える。短剣とも形容できるナイフに滴る血を振り払うと、流れるような動作でホルダーへと仕舞った。そして、鋭い視線を目の前の敵へと向けた。

 フードで隠れていない女の口元が満足そうに吊り上がる。

「やっと興味をもってくれたみたいね。よかった。あなたに会いたくて、人身売買をやってみたんだけどどうかしら、喜んでくれた? 一応他にも色々と用意してるんだけど」

 会話など意に介さず、耳裏を二回叩いて通信機の電源を入れる。

「キーツ」

『天然は三。いや、四。総数は十以上、中距離狙撃が二。直接支援は?』

「必要ない。狙撃をやれ」

 了解という言葉とともに通信が途切れる。

 コンマ数秒。フードの女が再び口を開くよりも早く、彼は襲い掛かっていた。

 数メートルの距離が一瞬にして蒸発し、逆さに構えた刃が光る。

「あら怖い」

 一閃。手応えとともに火花が生じる。だが、刃が捉えたのはフードの女の骨肉ではなかった。

 突如として現れた男の、それもただの右拳だった。

「……」

 彼は冷静に刃の角度を変えると、力を下方へ逃した。潜り込んだ刃は腕の裏肌を走り、斬り進んだ先は男の懐。もう一方の拳が迫るよりも早く、跳ねるように突き上げられたナイフは咽喉いんこうを砕きながら根本まで突き刺さった。さらに横方向へ勢いを転化、回転助走をつけて男を蹴り飛ばす。

 まさしく秒殺。けれども女は怯むことなく、

「ちゃんと天然を用意したのよ」

 高らかに指を鳴らした。彼女の前に新たな男女が降り立った。先ほどの男同様、両者とも瞳は虚ろであった。

「同族殺し。気分はどう?」

「俺は殺すだけだ」

 ふぅん、と顎に手を当てて女は笑った。

「三年前の、葬王のときみたいに?」

 刹那、空気が地に落ちる。

 彼――《殺人王》の殺気であった。

「ッッ!」

 本能的にか、虚ろな瞳の男女が合図も無しに彼へ突撃する。男が握る二丁の拳銃は絶え間なく火を吹き、その弾丸の雨の中を重心を異様に低くして走る女が先行した。不気味に広げられた両腕は鎌のようで、振るわれた腕は残像を残すほどの速さだった。

 十数発の銃弾と女の一撃が迫る。

 けれども、《殺人王》は動かなかった、

「ッ!?」

 必要なかったのだ。何故なら放たれた弾丸の雨は一度たりとて掠りもせず、女の一撃はただ単純に脅威でなかった。振るわれた両腕の手首を難なく掴み止めると、そのまま力任せに引き千切った。

「アッアッ」

 残された男は後退りながら拳銃を連射していく。しかしすべて無駄だった。

 彼にしてみればただ睨むだけでよかった。蛇睨蛙じゃげいかわず。死に睨まれた人間の銃弾など当たるはずがないのだから。

 カチカチと乾いた音が響く。男の命運が尽きた瞬間だった。

《殺人王》の腕がぶれる。腰のホルダーの空きが増えたかと思うと、フルタングのナイフは男の額を貫いていた。

「さすがねぇ」

 感嘆が漏れる。そこに命が失われたことによる余韻はない。

 一歩、また一歩と《殺人王》はゆっくり女へと近づいていく。右の手では刃が躍った。

「安易に葬王の名を口にしたことを後悔しろ」

「後悔してるのはあなたじゃなくて?」

 重心が下がり足に力を籠めたそのとき、

「それとも、回収されてしまった葬王の死体のことを言ってるのかしら?」

 放たれた一言は、今夜最も彼の表情を変えた言葉だった。

 身体の動きを止め、僅かに目を見開く。

「……回収された死体だと?」

「ありえない、って言いたそうな顔ね」

 そんなはずがなかった。

 なぜなら。

「死体を処分したのは、あの女を殺した自分だから?」

――『フォル、最初で最後の頼みだ』

 忌々しい、あの満月の夜の記憶が瞬間再生フラッシュバックする。

 追い打ちをかけるかのように、《殺人王》の足元に勢いよく何かが刺さった。

「でも、それを見ても同じことが言える?」

 柄が高く、短剣とさえ形容できる大きさで、背面湾曲クリップポイントのフルタング。

 決定的だったのは、L. Rの刻印。

――『お前が私を殺してくれ』

 それは自身と、自身が憧れた師が愛用していた特注のナイフだった。

 感情のままに動くには充分だった。

《殺人王》は次の瞬間には女へ肉薄していた。例えるならば地を這う稲妻。コンクリートの地面に亀裂を入れるほどの移動速度は、常人では目で追うどころか視認することすら難しいだろう。

 無駄はない。勢いを殺さずに首目掛けて刃を振り上げ――、

「ッッ!」

 ――る寸前で新たにナイフを抜き取ると、それを地面に引っ掛けた。全身からあがる悲鳴を無視して身体を捻じり、横に飛ぶ。

 刹那、女を貫いた数発の弾丸が《殺人王》を襲った。

 紙一重ですれ違う銃弾が頬に一本の傷を走らせる。

「あら惜しい」

 ざりざりと、猛獣の如き前傾姿勢で勢いを消していく。

 弾丸が貫通したというのに、女が損傷した様子は見られなかった。

 つまり、そこに肉体はないということ。

「感情のままに襲い掛かるだなんて、いくら葬王の話だからってさすがに動揺しすぎなんじゃないかしら。そんなの見せられたら楽しくなっちゃうじゃない! アハハハ!」

 女は高らかに笑うと、姿を消した。

 再び現れた場所は、彼の目と鼻の先だった。

「最高の皮肉よね、天然の兵器利用に最も反対していた葬王の死体を使って兵器を作るなんて。アハハ! どれだけの金と命が動くのかしらっ! あなたも楽しみでしょう、殺人王」

 再び女が鳴らした指音を皮切りに、複数の殺気が彼を囲むように現れる。屋上の出入口からの登場はもちろんのこと四方の壁から登ってくる者、どこから発射されてか砲弾のように勢いよく降り立つ者など様々だった。

「これは置き土産。これだけの人数なら――」

 しかし、《殺人王》には女の言葉も、自身を取り囲んでいる殺気も届いていなかった。状況など蚊帳の外。石のように固まった表情で、地面に突き刺さったままのナイフを見つめていた。

 目が離せなかった。

 気づいてしまったのだ、それが特別であるということに。

 赤く錆びた刃に、無数の亀裂が入っている柄。

 人間による血錆びと握り締めてできたであろう亀裂は紛れもない、あの満月の夜の――。


――『殺してくれて、ありがとう』

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