背中

 閉店後、店の掃除をしているとふと目に入ったのはショーケースの前でかがむ千紘の背中だった。

 丁寧にガラスを拭きながら揺れる真っ白い服の背中。

 体のラインが見えるような服ではないけれど、その下で筋肉が動く様がわかる気がするのはなぜだろうか。

 普段運動をする人なのかどうか知らないが、千紘はわりと筋肉質だ。といってもむきむきなわけではなく、きれいに程よく男らしい体型だ。ケーキを作るのは案外肉体労働だったりするのだろうか。それともどこかで鍛えているのだろうか。

 どちらかと言えば華奢な俺からしてみると、あこがれの広い背中だ。

 そんな風に千紘の背中を見つめて妄想を広げながら、つい出来心で、ほんとについうっかりと、その背中に飛び乗った。しゃがんだ背中に負ぶさるように体重を預ける。

「うわっ、何だお前!」

 突然の出来事に千紘が思わず声を上げた。触れた肌から直に伝わる声の振動が思いがけなく心地良い。

「乗っかってみたい背中だったからつい」

「ガキか、おまえは」

「ガキだもん」

 開き直ってぎゅっとしがみつく。

「あのなあ、言っとくけど俺はおっさんなんだからな。腰いわして仕事できなくなったらどうしてくれるんだ」

 そんなことを言いつつも、千紘は揺らぐ様子もなく掃除を続けている。ちょっとぐらい動揺してくれてもいいのに。俺の影響力なんてちっぽけだ。

「千紘さん、甘い匂いがする」

 ドキドキしているのなんて俺だけで、きっと密着した背中から俺のドキドキは千紘には丸わかりなんだ。ずるい。

「嫌ならくっつくな」

「嫌じゃないよ。食べれないけど匂いは嫌いじゃないもん」

 職業柄、香水の類いはつけていない。髪や服についたケーキの甘い香りと、それから多分千紘自身の匂いとが混ざり合って、とても良い匂いだと思う。ドキドキしながらも心が落ち着く感じがする。

 冗談や悪ふざけなんかではなく、こうして抱きしめられるような関係になれたらいいのに。

 そのまま動こうとしない俺をどう思ったのか、一通りガラスを拭き終えた千紘は俺の腿に手をかけるとそのまま立ち上がった。

「ぅわぁ」

 思わず声がひっくり返る。

 完全におんぶされた。そんなつもりじゃなかったのに。

「諒、軽いなあ。好き嫌いとかするからだぞ。甘いもんも食っとけ」

 軽々と持ち上げられてしまったけれど、そんなに軽くはないはずだ。確かに一般的な男子高校生の体格に比べて縦も横も少ないけれど、そんなにものすごく足りないわけでもない。

 いったい誰と比べて軽いのか、そんなことを一瞬考えて、へこんだ。

「いいじゃん、べつに」

 呟いた声にそんな心の翳りが乗っかってしまったのか、千紘は首をひねって俺を見た。近すぎるその距離にうろたえて、肩口に顔を埋めると、千紘はおかしそうに笑った。

 いつもそうだ。どんなことをしたって結局うろたえるのは俺だけで。

 千紘の心を揺り動かすなんて俺には出来ないのだ。

 悔しいけれど、大人の余裕をはぎ取ってやることなんて叶わない。

 振り落とすこともせず受け入れてくれる千紘の余裕に甘えながら、憎らしくも思う。

 優しさなのか意地悪なのかもわからない。

 悔しいのと甘えたいのと込み上げる胸の中の名前をつけられない思いとがぐちゃぐちゃになって、俺はぎゅっと強く千紘にしがみついた。

 このまま時が止まればいいのに。

 こうして千紘のぬくもりを感じたままずっと。

 けれどここは店の中で、今は後片付けの真っ最中で。

「…何やってんの?」

 倉庫に行っていた晋平が戻ってきてドアを開けた格好のまま動きを止めていた。呆れたように現状を観察する。

 掃除をしているはずの二人が意味もなくおんぶをしていたらそれはびっくりだろう。何がどうしてこのような状況になるのか、思いつく選択肢もないに違いない。

「見ての通り、こなきじじいに襲われてる」

 淡々と答えた千紘は、くっとくぐもった笑いをこぼす。

「誰が妖怪だよっ」

 俺はじたばたと暴れてがっちり掴まれた足を解放しろと主張する。千紘の手が緩むとひょいっと飛び降りた。

「晋平さん、千紘さんが俺をいじめるんだ」

 わざとらしく泣きそうな声を出す。

 現実はこんなもんだ。

 ただいたずらに背中に飛び乗りふざけていただけ。

 そのぬくもりに幸せを感じて浸っていたなんて俺の中のただの妄想だ。

「ちょっと待て、今の被害者は俺だろうが」

 そうやって全部冗談で終わらせる。

 どこまでいっても俺たちはそうでしかないような気がする。

 千紘がすべてを冗談にする限り、ずっと。

「なんでもいいけど二人とも仕事しなよ。俺先に帰るよ?」

 肩をすくめ、晋平は置きっぱなしだった雑巾を片付ける。

「はーい。ごめんなさーい」

 現実は現実、受け入れなければいけない。

 気持ちを入れ替えて途中やりだった掃除を再開する。

 モップを握ろうとする両手を広げて見つめた。

 そこに残る千紘の感触を思い出す。

 幸せなその感覚を刻み付けるようにぎゅっと握った。

 背中のぬくもりを思い返すと胸がトクンと熱くなる。

 冗談だっていい。こうして触れられることがこんなにも嬉しい。

 けれど、もしも。

 もしもあの背中が自分のものになったなら。

 それはこんなちっぽけな幸せとは比べ物にならないほどの幸福に違いない。

 手に入らないからこそ欲しいと願う。

 強く強く願う。

 再び動き始める千紘の大きな背中をちらりと見やり、俺はモップを掴むと力一杯床をこすった。

 



<終> 

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