俺の知らない裏事情

 いつものように寝ぼけ眼を擦りながらキッチンへ向かうと、珍しく食卓で新聞を広げる父親に遭遇した。

「あれ?父さん、なんでこんな時間に家にいるの?」

 普段であれば、俺が起きる時間にはもう出勤していて、平日の朝に出会う事なんてあり得ないのだ。

「今日は休んだ」

「なんで?」

「単なる有休消化だよ。あまり使わないでいるとそれはそれで問題になるものなんだよ」

「ふ~ん」

 そんな事今までした事ないよなとは思ったけれど、だからどうだということもないので、俺は気にも止めずにいつものように冷蔵庫を開け、牛乳をコップに注いだ。

「諒、バイト始めたんだって?」

「ああ、うん。なんか突然スカウトされちゃってさあ。まあ、普通のケーキ屋さんなんだけど」

「お前がケーキ屋?」

 俺が甘い物嫌いだという事を知っている父は、当然のように訝しむ。

「だって別にウエイターがケーキ食べるわけじゃないし」

「そりゃそうだけどなあ」

 スカウトだなんてあやしいし、などとぶつぶつ言い始めた父に、俺は密かにため息をついた。

 うちの親は、過保護だ。特に父親のそれは異常だと思う。

 ものすごく可愛がられているのはわかるが、心配性過ぎるのだ。

 俺だってもう高校二年生なんだから、バイトの一つや二つ、当たり前にするだろうと思うのだが、どうもうちの両親からはそんなことはしなくていいぞオーラが発せられている気がする。

 ちなみに、俺と両親に血のつながりはない。まだ赤ん坊の頃に、父香川良孝かがわよしたかの養子になったのだ。

 それなのに、と言うべきか、それだから、と言うべきか、大事に大事に愛情たっぷりに育てられてきた。

 俺にとっては物心ついた時からこの人たちが親であったし、特殊な関係に心揺らぐわけでもなく真直ぐに育ったわけだけれど、最近、子離れ出来ないこの人たちに少し困る事がある。

「とにかく、俺はやるって決めたの」

「やめろとは言わないけどな、ちゃんとした所かどうかとか、気になるだろう」

「大丈夫だって。学校のすぐそばだし、客なんて同じ学校の生徒ばっかりなんだから」

「そうか?」

「そうだよ」

 行儀悪く歩きながら牛乳を飲みつつ、ガスレンジの上の鍋の中身を覗き込む。

「ねえ、コーちゃんは?」

「体調悪いって寝てる。それ、温めて食ってけって」

 コーちゃんこと岡村幸喜おかむらこうきは、俺の母親代わりでありこの家の主夫。男性であるため戸籍上俺とは赤の他人であるが、父の恋人であり、俺がここに引き取られてからずっと同じ家に暮らしている人だ。

 つまり、俺という人間の家庭環境を一言で言ってしまえば、どう足掻いても子供が出来ないゲイカップルの養子、というわけだ。

 かなり世間様とは異なった家族ではあるが、俺にとってはこれが当たり前で、嫌だと思った事はない。

 彼らには、俺をこんな環境に引きずり込んだ負い目があるのか、そこいらの親よりもずっと親らしくきっちりと俺を育ててくれている。

 多分、同じ年頃のやつらと比べて、俺は両親と仲が良いと思う。血のつながりのない事、全員男である事が、逆に俺たちの絆を強めているのかもしれない。

 そんな家族関係だからこそ、この異常に心配症な父親を作り出してしまったのだろうか。

 心配される事を嫌だとは思わないけれど、もう少し対等である事を認めてほしいと、最近はそう思う。大人でありたいと願う年頃なのだ。

 飲み干した牛乳のコップを流しに置き、作ってあった味噌汁と煮物を温めて、ご飯に納豆をかけて食べた。

 食べている間に、店の場所とか、店の人はどんなだとか、根掘り葉掘り聞かれ、少しうんざりしながらも懇切丁寧に答えた。

 普段、仕事が忙しい父とこんなふうに話ができるのが、俺も実は少し嬉しかったりするのだ。





 香川良孝は、まだ準備中であると確認しておきながら、その店のドアを押した。

 入口の鍵は開いており、難無く店内に足を踏み入れた。

「すみません、まだ準備中ですが」

 フロアの掃除をしていた甘いマスクのウエイターが、慌てた様子でやってくる。

「わかってます。ケーキを買いに来たわけじゃないんで。店長はいる?」

 年の頃は四十半ば、ケーキ屋などまるで似つかわしくないエリートサラリーマン風の色男が一体何用かと、顔に疑問を浮かべつつ、晋平は少々お待ち下さいと奥の方へ入って行った。

 しばらくすると、ウエイターとは違う白い服を着た職人が出てくる。どうやら彼が店長のようだ。

「何か?」

 近寄ってきた千紘は、良孝の顔を見ると、数回目を瞬かせる。

「もしかして、香川さん、ですか?」

「そうだが、どこかでお会いした事が…?」

 おかしな展開だが、訪ねてきた良孝が千紘を知らず、千紘の方が良孝を見知っているらしい。

「いえ、あなたが有名な世界に自分もいるもので」

「なるほどね」

 この近辺で同性愛の人間ならば、大概良孝の事を知っている。ゲイカップルが養子まで取って生活していると、まるで英雄のようにその世界では語られているのだ。

「ということはつまり、うちの息子をスカウトしたのはそういう意味で?」

 ふつふつと怒りが沸き上がる。

 自分はこんな世界にありながら、息子には健全に生きてほしいとそう願っている。

 良孝の顔を知っているほどどっぷりとこっちの世界にはまっているやつに息子を弄ばれるなど、冗談じゃない。

 ずいぶんと男前だし、諒太郎からしてみればかなり大人だし、誘惑されればころりといってしまうかもしれない。

 ケーキ屋のバイトが、なぜスカウト制なのかあやしいと思ったが、こういうわけだったのか。

 息子に内緒で、会社を休んでまで確かめに来たのは正解だった。

「息子って…え、諒太郎ですか?あいつ、香川さんの息子さんだったんですか」

「あいつの名字も香川だろう?」

 良孝の息子と知っての狼藉ではないらしく、千紘は酷く驚いた顔をしていた。

 良孝を知っているならば、良孝がその息子を溺愛していて、近寄る男はことごとく潰しているという噂ぐらい耳にしているだろう。

「うちの息子、健全に育ててるはずなんだけど、どうもそのテの男にモテてしまうようでね。俺は父親として悪い虫ははらう事にしているんだ」

「ちょっと待って下さい」

 良孝がちらりと殺気を見せると、千紘は慌てて首を横に振る。

「俺がそっちの人間なのは認めますけど、諒太郎をスカウトしたのはそういうんじゃないですから。彼は女の子にも人気がありますから、女子高生の客を増やせるかと思いまして」

「本当だろうな」

「俺、子供は趣味じゃないですから」

 じっと目を見たが、嘘を言っているようには見えなかった。口から出任せの言い訳ならば、こんなに落ち着いてはいないだろう。

「あっちのウエイターは?」

「あいつもそうですけど、自分より大きい男にしか興味がないんで」

「そうか」

 本当は、そんな趣味のやつがいるというだけで働かせたくはないのだが、諒太郎が随分気に入っているようだから、実害がないのなら目を瞑るしかない。

 良孝は無理矢理自分を納得させて、頭を下げた。

「息子をよろしくお願いします」

「はい、こちらこそ」

「だけど息子に手を出したら承知しないからな」

「わかっています」

 千紘も深々と頭を下げた。

 不義理が身を滅ぼす狭い世界だ。多分その辺はしっかりわかっているやつだと、見ていてわかる。人を見る目はあるつもりだ。

 準備中なので客層はわからないが、店の雰囲気から想像するに、問題はなさそうだ。

 彼らがゲイである事以外は、パーフェクトな仕事環境であると思う。

 良孝は、最後に千紘の顔をしっかりと目に焼きつけて店を後にした。

 周りにゲイが集うのは、諒太郎の運命なのだろうか。

 だとしたらその運命を作ったのは良孝自身であろう。

 良孝が施設から諒太郎を選んだその瞬間、始まった運命だ。

 けれど、だからこそ、誰よりも普通に幸せに生きてほしいと願う。

 それは単なるエゴだろうか。

 今、良孝は幸せであるけれど、過去には辛い道をたくさん通り抜けてきた。そんな思いを息子には味わう事なく生きてほしい。

 子供の未来に親の希望を託す事は、重荷だろうか。

 もしも、諒太郎自身が彼らに恋心を抱くような事があるならば、良孝は幸せの芽を摘んでしまったのかもしれない。

 報われない片思いに身を焦がす思いをさせてしまうのかもしれない。

 その可能性もないとは言いきれないけれど、それでも、こうして裏から手を回してしまうのは、良孝の身勝手だろうか。

 自分の永遠の伴侶である幸喜の顔を思い浮かべ、自分の中で矛盾するいくつもの思いを噛みしめた。



<終>

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