下校中に降って湧いた出来事
俺は、香川諒太郎、16才。健全な高校二年生だ。
帰宅部の俺は放課後をゆっくりと教室などで友達と喋りながら過ごし、のんびりまったりと下校する。学校から最寄りの駅まで徒歩で十分弱、そこから家まで電車で十分ほどの道のりである。
男女共に友達の多い俺は、そこここで知り合いに声をかけられつつ、今日もいつものように平和な下校時間を楽しんでいたのだが、駅前の大通りで見知らぬ男に行く手を遮られた。
立ちふさがるのはサングラスにオシャレなスーツ姿のお兄さん。明らかに、俺の足を止める目的で、彼は俺の行く手をふさいでいる。
俺はその人に全く見覚えがなく、こんな事をされる覚えもない。
「何ですか?」
見るからにあやし気で少しびびってはいたものの、悟られてなるものかと平静を装った。
サングラスの向こうの目は見えず、表情はよくわからなかったが、彼の唇がにやりと笑みの形に引き上げられ、そして予想よりも低音の声が発せられる。
「ねえ、君。うちの店で働かない?」
「働きません」
俺は内心げっそりした。街で声をかけられるというのはたまにある出来事だけれど、ついにいかがわしい店からスカウトされてしまった。
学生服姿の明らかな未成年なのに、今時はそんなことおかまいなしに声をかけるのだろうか。
そんなやばい商売に関わるつもりはない。俺はきっぱりとお断りしたのだけれど。
「まあまあ、やるかやらないかは見てから決めればいいから。店はすぐそこだからさ、ちょっと来てよ」
男は強引に俺の腕を掴んで歩き始める。
「ちょ、ちょっと」
俺は慌てて腕を引いたけれど、彼の手は頑として離れず、着いていくしかなかった。人攫いだと叫んで暴れる暇はなく、あっという間に店の前に到着してしまったからだ。
「え?ここ?」
想像していたいかがわしさなど欠片もない、カントリー調の小さなカフェのドアを開いて彼は俺を招き入れる。
「ケーキ、屋さん…?」
完全に予想外の展開に呆然としていると、奥からウエイターの格好をした甘いマスクの男が出てきた。
「あ、店長おかえり」
「おう、晋平。任せちまって悪かったな」
どうやら、俺に声をかけたこのあやしげな男は、この可愛らしいカフェの店長らしい。絶対に、いかがわしい店の人だと思ったのに。
「どうだった?結婚式」
「どうもこうもなあ、ああいう場は落ち着かないね」
「あれ?その子は、もしかして例の?」
「たまたま見かけたんで連れてきちまった。俺は着替えてくるから、あとよろしく」
俺がぽかんとしている間に、店長は店の奥に入っていってしまう。
「…結婚式、だから、あのスーツ…?」
結婚式の参列客にはとても見えなかった。なんというか、ああいうのとはあまりにも空気が違い過ぎるのだ。
「あー、もしかしてあの人、何も言わずに強引に攫ってきちゃった?」
先程店長に晋平と呼ばれた男が、困ったように頭を掻いた。
「働かない?とか言われたんだけど…」
「あのあやしいナリでか?よくついてきたよね」
「いや、着いてきたくはなかったんだけど、引っ張り込まれて」
「良かったね、うちケーキ屋で」
「ほんとだよ。絶対いかがわしい店だと思ってた」
見るからに人の良さそうな晋平の笑顔に、ようやく張りつめていた糸が切れる。
とりあえず、身の危険はなさそうだ。
「あはは、店長はあやしいけど、いかがわしくはない普通のケーキ屋だからね」
「誰があやしいんだ、このヤロー」
奥から出てきたのは、着替えてきた店長、なのだろう、多分。
人は見かけによらないというか、服装から受ける人の印象とはこれほどに変わってしまうものなのか、同一人物とは断言出来ないぐらい先程とはまるで別人のようだった。
少し長めの髪を後ろで括り、店の雰囲気に合わせた少し可愛らしいデザインの白い帽子と白い服に黒いエプロンを付けていて、イケメンパティシエそのものだ。
おまけに営業スマイルも追加して、人当たりも良さそうで、相当格好良い。
出来る事なら、初めからこの格好で声をかけてほしかった。いらない心配にハラハラドキドキしていた自分が、少し悲しい。
「俺は店長の秋川千紘。こいつはウエイターの相田晋平。今のところうちの従業員はこれだけだ。で、只今バイト募集中、と」
「はあ」
近くのテーブルに座らされ、晋平が可愛らしいケーキと紅茶を運んでくる。
「とりあえず、食え。サービスだ。うまかったら働け」
なんで命令口調?と心の中で突っ込みを入れつつ、俺は紅茶に口を付けた。
確認したわけではないが、多分この店長が作ったのだと思われるケーキは、顔に似合わず随分と繊細で可愛らしく、いかにも若い女性に好まれそうなものだった。本当に、人は見かけによらない。
「俺、甘いものダメなんだけど」
俺が甘党だったならきっと飛びついたのだろう美味しそうなケーキだったが、残念ながら俺は甘いものが嫌いだ。ケーキなんて多分、物心つく前に食べさせられた以外口にしていないだろう。可愛らしく上にちょこんと乗っている苺さえ、クリームが少しついているから食べたくはないと思うぐらいに、とにかく甘いものが駄目なのだ。
「ええっ!」
まるで宇宙人にでも遭遇したかのように大袈裟に驚いた千紘は、この世の終わりみたいな顔で落ち込む。
「まあいい、食べれなくたってな、ウエイターは運んでなんぼだ。あー、そうだ、バイト代ははずむよ」
自分を励ますように呟いた千紘は、何としてでも俺を手に入れたいと言わんばかりに、次はお金で俺を誘惑する。提示された額は、学生のバイトにしては破格の値段で、俺の方がびっくりしてしまった。
「なんで、俺なの?」
一体俺に何の価値があるというのか。ただカフェのウエイターのバイトをして多額のバイト代をもらう、そんなおいしい話に裏がないはずがない。
表向きこんな健全だけれど、実は影で売り飛ばされたり、なんてことがあったりするのだろうか。
いろんな想像を膨らませつつ千紘を見ると、今までとは全然違った、というか、スーツ姿で出会った時と同じようなあやし気な企み顔で笑い、器用そうな指で俺の頬に触れた。
「俺は君に惚れてるんだよ、香川諒太郎くん。君を手に入れるためなら何だってするよ」
長身の千紘が身を屈め、顔がぐっと近付く。熱のこもった視線が俺をなめていくのがわかった。
蛇に睨まれた蛙のように、俺は身じろぎできずにいた。
ピンチ再びだ。たとえ店は健全であっても、人間が健全でないなら俺が危険である事に変わりはない。その種の人間が存在する実感はあったのだが、まさかこんなところで自分が貞操の危機に晒される事になるとは思いもよらなかった。
帰ろう、今すぐ帰ろう。そう思ったが、体が言う事を聞いてくれない。
全身から嫌な汗が吹き出すのを感じた。
すると、千紘は急に、俺の顔に豪快に唾を飛ばしながら吹き出す。
「あっはっは、可愛いなあ、男子高校生。うそうそ、冗談だよ」
とても冗談には思えなかったのだが、腹を抱えて笑い転げる千紘を見ると脅えていた自分が阿呆らしくなってくる。晋平も一緒になって笑っているし。
初対面なのに、何なんだ、この人は。
少し向かっ腹がたったが、なぜだか憎みきれないのは掴みきれないキャラクターのせいだろうか。惹かれる部分も少なからずあるのだ。
ひとしきり大笑いした千紘は俺の向かいの椅子に腰を下ろすと、打って変わった真面目な顔で俺の顔を覗き込む。
「君をスカウトしたのは純粋に店のため。ケーキ屋といえば、ターゲットは若い女性だろう?ここは立地条件的に君の学校の女子生徒が客層のメインになるだろう。そこでだ、女子高生を一番つかめるバイトを手に入れ客を引き寄せる、それが俺の考えた戦略ってわけ。女子たちの間でアイドル的存在なんだよね、君。放課後の予定はなさそうだし、うちで働いてもらうのに君以上の好条件の人間はいないんだよ」
「うわ、もしかして俺の事調べ上げられてる?」
そういえば、名乗ってもいないのにフルネーム知られていたし、晋平も「例の子」なんて言っていたじゃないか。最初から、こうなる事は決まっていたのだ。
「バイト代が高いのは、能力給ってことで。君がここにいる事による集客数を考えれば安いもんさ。さあ、どうする?」
からくりがわかってしまえば俺に悪い話は一つもない。俺と同じ帰宅部の友人たちは何かしらバイトをしているのが普通で、俺もそろそろ何かを経験してみるのもいいかなと思い始めていたところだ。
店長は変わった人だが、悪い店ではなさそうだし。
さっきの話が本当に冗談だったのかどうかだけが少し不安ではあったが、たとえ冗談でなかったとしても無理矢理どうこうという事はないだろう。あの人は店の損失になる事はしそうにない。
ここで女の子相手に客商売しながら、金が手に入る。欲しいものも買える。
俺にとっても店にとってもいい話ならば、断る理由はどこにもない。
求められて働いているバイトなんて、きっとほとんどいないだろうこの世の中で、俺に降って湧いたこの出来事はきっと幸運なのだ。
「やってみても、いいかな」
「よーし、じゃ、決まりな」
繊細なものを作り出す大きな手が、俺の頭を撫でる。予想外に暖かい手だった。
男前だけど怪しげな人、さわやかで優しげな人、計算高く冷たそうな人。次から次へと印象が変わる人だ。彼の本質がどこにあるのか、俺にはよくわからない。
俺がこの話を受けたのは、条件がいいから、なんてことではなく、本当はこの人が気になってしまったからなのかもしれない。
彼の毒牙に、まんまとはまってしまった。
この選択は俺にとって良かったのか悪かったのか。
とにもかくにも、俺のバイト生活はこの時から始まった。
<終>
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