佐藤さん
黒うさぎ
第1話 佐藤さん
百万ドルの夜景という言葉がある。
人々の営みの尊さを表した、素敵な表現だと思う。
ただしそれは夜景を眺める立場の人間からしたらの話だ。
夜景の一部にしか過ぎない俺からしたら、そんなもの美しくもなんともない。
◇
カタカタとキーボードを叩く音が静まり返った室内に響く。
既に夜の帳は降りており、世間では団欒の時間を過ごしたり、あるいは子供たちが夢の中に浸っているであろう時間。
俺は次から次へと湧いてくる仕事に忙殺されていた。
この作業にいったいなんの意味があるのか。
もっと効率のいい方法があるのではないか。
そんなことを考えはするものの、効率を上げるための知識も技術も俺には備わっていない。
与えられた仕事をマニュアルにそって淡々とこなすしかないのだ。
いつもとかわらぬ残業の日々。
別にうちの会社が特別ブラックというわけではない。
残業代だってきちんと出るし、人間関係も良好だと思う。
ただ、技術革新する世間の流れに取り残され、未だに創業当初のマニュアルに引っ張られている部分がある。
誰かが正すべきなのかもしれないが、残念ながら社長を含め会社に意見具申するほどの忠誠を誓ったものは社内にいなかった。
旧態依然とした作業内容ではあるが、なまじ経営自体は上手くいっている為、今の環境をかえようとする気がないのだ。
こうして残業をしているとどうにか作業効率を上げたいと思うが、一朝一夕でできることではない。
明日こそ、明日こそはと思っているうちに何もかわらないまま日々は過ぎていく。
ディスプレイから目を離し、大きく伸びをする。
入社する前はデスクワークは肉体労働より楽だと思っていたが、そんなことはない。
そもそも疲労のベクトルが違うので単純に比較できるものではなかったというべきか。
首のストレッチをしながらデスク横の窓をみる。
鏡のように反射した窓には少しやつれた顔が映っていた。
(少し無理しすぎたか……)
このところ残業の日々が続いている。
自分では大丈夫だと思っていたが、流石に疲労が溜まってきている。
ただ、この残業は自ら進んで行っている面もあるので、会社に文句はない。
なんというか、無性に働きたい時期が訪れたのだ。
仕事をすることで、自分の存在意義を実感することができる。
自分でもおかしな思考だと思うが、そう考えてしまうのだから仕方ない。
「鈴木君、お疲れ様」
声のする方へ振り返ると、そこには佐藤さんがいた。
手には二人分のペットボトルのスポーツドリンクが握られている。
「佐藤さん?
今日はもうあがったはずじゃ」
「そのつもりだったんだけどね。
いざ辞めるとなるとなんだか名残惜しくなっちゃって」
彼女は俺の先輩であり、入社してからいろいろ面倒をみてもらった人だ。
佐藤さんとは馬があうというか、時間を重ねる中で仕事以外の話もするようになった。
その中で何度か、会社を辞める相談を受けていた。
理由は体調によるものだ。
このところは比較的元気なようだが、少し前までは吐き気や頭痛などに悩まされていたようだった。
実は一月半後に入院することが決まっている。
退院後に復帰するという選択肢もないわけではなかったが、早くても数ヵ月後になるだろう。
その中で彼女が選択したのは退職するというものだった。
俺も彼女の意見には賛成だった。
もう会社で会うことがなくなると思うと寂しい気持ちが込み上げてくるが、優先すべきは彼女自身だ。
「佐藤さん」
隣の席に座った佐藤さんの顔をみる。
「ふっ、どうしたの?
そんな真面目な顔して」
透き通った瞳が向けられる。
「いや、その……」
俺は佐藤さんのことが好きだ。
いつからこの思いを抱いていたのだろうか。
仕事を教えてもらっていた頃か、それとも雑談をするような関係になった頃か。
気がついたら佐藤さんの存在は俺にとってかけがえのないものになっていた。
実は今やっている残業も、佐藤さんの仕事を一部肩代わりしているが故だ。
佐藤さんや会社のみんなはそんなことする必要はないといっていたが、どうしても俺がやりたかったのだ。
仕事を通して、会社を去る彼女との思い出に浸りたかったのだろう。
意味のないことだとは理解しているが、こうでもしないとこの気持ちは抑えられそうになかった。
「佐藤さんて呼ぶこともなくなるんだなって思うと、少し感慨深いものがありまして」
「確かにそうかもしれないね。
そうか、私も鈴木君て呼ぶことなくなっちゃうのか」
沈黙が2人を包む。
古くなった空調のガタガタという音がやけに耳につく。
「……佐藤さんは早く上がってください。
なんのために俺が残業していると思っているんですか」
人指し指でコツコツと自分のデスクを叩く。
「別に私が頼んだ訳じゃないんだけど」
「いいですから、ほら。
気をつけて帰ってくださいね」
「はい、はい。
……ありがとうね、鈴木君」
「はい」
俺は彼女の靴音が聞こえなくなると、キーボードを叩き始めた。
◇
なんとか終電に滑り込むことができた。
睡魔に耐え、鉛のように重い体を引きずってどうにか我が家にたどり着く。
「ただいま」
「お帰りなさい」
「なんだ、まだ起きていたのか。
体を大切にしろっていっているだろう。
もう1人だけのものじゃないんだから」
俺は膝をつくと、大きく膨らんでいる彼女のお腹を撫でた。
「まったく心配性なんだから。
そんなこといって、本当は嬉しかったくせに」
「そりゃ嬉しいけど」
「それに体を大切にしてないのはそっちでしょ。
こんな時間まで残業して。
ねえ、鈴木君」
「……家でその呼び方は止めてくれよ。
なんというか、違和感がすごい。
わかるだろう、佐藤さん」
「……確かに変な感じ」
眉を寄せて彼女は苦笑した。
出産を期に彼女は退職して家庭に入ることにした。
今は鈴木である彼女だが、旧姓は佐藤だった。
職場では同姓だと紛らわしいので旧姓のまま呼ぶようにしているのだ。
家族が増えることが嬉しくてつい仕事を頑張ってしまう。
ただ、これから産まれてくる我が子のことを考えると、もう少し早く帰った方がいいかもしれない。
お金は大切だが、もっと大切なものはここにあるのだから。
家にいるこの瞬間だけは、夜景の一部も悪くないかもしれない。
佐藤さん 黒うさぎ @KuroUsagi4455
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