第213話 そして十年後

 それから十年の月日が流れた。


「見て! これ、カケル様からいただいた舶来品の髪飾りよ!」


 一人の少女が衣の裾を翻して、王宮の廊下を駆け抜けてくる。


「姫様、よくお似合いですが、お行儀が悪いですよ」

「何よ、ダヤン。あなたまでそんなこと言うの? 細かいこと言うのは母上と、ユカリ様と、ヨミ先生だけで十分だわ」

「されど、貴方、イロハ様はこの紫国の唯一の姫なのですから」

「……そうね」


 イロハは、国王ミズキと王妃サヨの一人娘だ。御年、九歳。まだ遊びたいざかりだが、王政という形態を守り続けてきたこの国の民は、彼女を子供でいさせてくれない。


 父親のミズキは、次期王はイロハでなくとも良いと考えているし、各地の社を起点に作った学び舎が、数々の秀才を輩出している。王宮でもたくさんの若者が次代を担う候補として育っているが、やはり慣れた旧体制を維持したい保守的勢力が圧倒的だ。


 一方、母親のサヨは、イロハの人生がどう転んでもいいようにと、時折お忍びで街へ出ることを黙認する代わりに、貴人としての教育を徹底して施し、良き師をイロハの近くに据えている。中でも、かつてクレナの妃であったと噂のヨミ先生は、本当に厳しいものだ。


 今も、茶と花の稽古を終えたところ。叱り飛ばされて草臥れたところ、ちょうど遠征帰りのカケルが通りかかり、クレハは励まされたところだった。


「ねぇ、ダヤン。ハクアはいつ帰ってくるの?」


 イロハは、後ろから追いかけてきた女官たちに乱れた髪を整えられながら、ダヤンに話しかける。ダヤンは、アダマンタイトの姫、アイラの息子。幼い頃から、イロハの遊び相手になってきた。異国の血を引いているので、顔立ちがこの辺りの者とはまるで違う。


 彼は笛の師匠、ハクアに連れられて、一年の半分は王宮の外で過ごし、野山を駆け巡り、獣と戯れる間に、すっかり逞しくも美しい男になってしまった。


 イロハは幼いながらも、自分と異なる性別であるダヤンの成長にどぎまぎしながら、庭の一角を目指した。


 王宮の北側。都の大通りへ抜けていく南側とは違い、ほとんど人気が無く、寂しい場所である。ここには、伸び盛る草に囲まれて、ひっそりと記念の石碑と、小さな社が建てられていた。


「今日はまだ、誰も来ていなかったようだな」


 ダヤンがそう言うと、イロハは無言で頷いた。石碑のすぐ前にある台は、空っぽである。イロハは女官から受け取った籠を、そっと碑の前に置いた。籠の中は、米と酒と、魚の干物。所謂、お供物である。


 碑の下には、何も無い。だが、その石肌には、『勇ましき者達、志持つ同胞、安らかに眠れ』との字が彫り込まれている。これは、慰霊碑なのだ。


 それは十年前に遡る。今の帝国王セラフィナイトは、当時紫国の牢に繋がれていた。にも関わらず、牢を守っていたソラの姫チグサと結ばれて、西へ。これが、再び大陸中を引っ掻き回す動乱の幕開けとなった。


 まずは、紫国とアダマンタイト王国との国交が正常化。アダマンタイトは神具の力や、紫ゆかりの信仰を受け入れることで、国力を回復させ、ついに帝国の傘下から独立した。


 セラフィナイトは、これを足掛かりに、多くの帝国の属国を自ら開放し続けた。いつしか数多の国がセラフィナイトを支持するようになり、ついに帝都を中心に一大派閥を作っていた王子との一騎打ちにもつれ込んだ。


 セラフィナイトが次々と実質的に帝国領土を手中に収めていった鮮やかな手腕。実は、彼本人だけの裁量ではない。その右腕として存在したのが、クロガという男だ。


 チグサの兄であり、神具師でもある。クロガは、かつてカケルの影武者を務め、旧ソラに蔓延る腐敗政治の静粛も手掛けた人物。何より、異文化、異なる価値観への柔軟な適応能力、果ては言語習得能力は著しく、内輪では影の帝王と呼ばれていたとか。エンジュという獣使いの笛吹きを上手く手懐けられたのも、クロガのお陰の言われている。


 そんな彼を慕う者達が、今こそ力にならんと戦線となる帝都へ向かったのが七年前。相手側に、死んだとされていた旧クレナの王子が居るとの情報があり、神具同士による対決が予想されたためだ。


 もちろん、武道にも通じ、神具も使いこなす頭の良い者達が向かったわけた。だが、やはり全員が生きて帰ってこれたわけではなかった。何より、総大将だったクロガが死んだ。これは、チグサだけでなく、セラフィナイトの怒りに強烈な火をつけることとなる。もはや、敵対する王子をただ葬るだけでは済ませられないという強い殺意は、帝都を火の海にした。結果、セラフィナイトが勝利を収めた。


 朗報と訃報は、すぐに紫国へもたらされた。この石碑は翌年、喪が明ける頃に作られたと伝わっている。


「アオイ先生は、いつも夕方に来るのよ」


 イロハは石碑の前に蹲って、頭を垂れる。彼女のシェンシャンの師は、アオイという引退した楽師だ。今は王宮の外で、イロハと同い年の娘と一緒に暮らしている。


 会話をしたことは数度だが、少し内気で、賢い少女だった。とイロハは、思い返す。以前サヨとハトの話を盗み聞きしてしまい、その少女の父親がクロガであることも知っていた。


 アオイは、王宮の外に出る時に、いつもイロハが庶民らしく見えるよう世話してくれる。師であると同時に、第二の母のようなところがある。いつも気丈で、時々口が悪くて。それでいて、奏での腕は一級品。今でも琴姫コトリから、楽師団に復帰しないかと頻繁に乞われているが、袖にしているのは、未だ心の傷が癒えないからであるとイロハは予想している。


 奏でには、人の心が映り込む。アオイは、どこか切なげな音を出す方が得意になっていた。初めて聴いた時なんて、シェンシャン自体が涙を流しているのではないかと錯覚する程に、悲しい音。確かに、楽師団には不向きかもしれない。けれど、小さな学び舎に閉じ込めておくには、あまりに勿体ない美しさなのだ。


 アオイに元気になってもらいたい。


 弟子のイロハが、骸が埋まっているわけでもない石碑に毎日祈りを捧げたところで、アオイは真に笑顔を見せるようにならないだろうし、ましてやクロガという男が帰ってくるわけではない。そんなことは分かりきっていたが、未だ少女のイロハには、それしかできないのだった。


「泣いてる」


 ダヤンは、指でイロハの頬を拭った。生温く、濡れていた。


「どうして皆仲良くできないのかしら」


 イロハは、戦が嫌いだ。

 ダヤンは、少し考えてから答える。


「皆、違うからでしょうね。私と、イロハ様も。ほら、違うでしょう?」

「そうかしら。同じ国にいるし、同じ場所にいる。それに、私もダヤンも、二人共蜜柑が大好きよ」

「そうですね。でも、別の人である以上、別の個であるのです。そして、それぞれ、自分の心は自分のもので、自由なのですよ。たとえ姫であっても、他人の心は縛ることができない。別の考えをもつことは、ごく自然なことなのです」

「じゃぁ、どうすればいいの? 皆、ちゃんと正しいことをして、お互いを好きになる努力をすれば、もっと上手く行きそうな気がするのだけれど」


 イロハは不満そうだ。ダヤンが、そんな彼女をにこにこと眺めると、イロハは一層怒ったように頬を膨らませる。


「正しいことって、好きになることって、何なのでしょうね」

「質問してるのは、私の方よ?」


 ダヤンは、また笑った。


「その答えも、きっと人それぞれなんです。そんなばらばらの人々、民をまとめ上げているのが、イロハ様のお父上ですよ」

「父上は、嫌いだわ。クロガ様も死んでしまったし、他の人も。こんなに人が死ぬような指示を出すなんて、意味が分からないもの」


 ダヤンは、迷った。世の中、綺麗事だけでは生きていけない、上に立つ者は、時に犠牲も厭わぬ決断が必要だと話すべきか。それ以前に、王を嫌いだと一蹴するのを咎めるべきか。


 しかし、どれもこの幼い姫君には響かないだろう。ただ純粋に異国の地で果てた者達に思いを馳せて、心を痛める姿が、愛おしくて仕方ない。


 今、焦って大人の世界を見せなくても、どうせすぐに目の当たりにすることになる。今だけは、このままでいさせてあげたいのだ。


 ダヤン自身、特殊な出生、少年期を超えて、早く大人になる必要があった。そうでないと、紫国に身を置く母親を守れなかったし、帝国にたくさん居る兄達から命を狙われかねなかったからだ。手段を選ばず、強くならねばならなかった。


 ハクアから笛の業を授けられることになったのは、全く後悔していない。笛、シャオとの出会いがあったからこそ、今でも紫国の王宮に出入りし、こうしてイロハの護衛や話し相手をすることが許されているのだから。


 ダヤンは、おもむろに腰の帯に差していた笛を口元へ持っていく。高密度に圧縮された神気が、音色となって辺りへ拡散していった。


 すぐに、小鳥がやってきた。王宮の近く、大社で飼われているスオウと呼ばれる紫の羽を持つ鳥達だ。この鳥が頭上を横切ると、大変縁起が良いとされている。ダヤンは、少しでもイロハを元気づけたかった。


 しかし、そこへ招かざる客が現れる。


「あ、やっぱりダヤンだ!」


 おろおろする女官と侍従を引き連れてやって来たのは、この国で最も有名な双子であった。


「いつ見てもすごいですね」

「スオウを見れたから、今日のお稽古は上手く行きそうだわ」


 元気いっぱいの少年、少女は、琴姫コトリと大神具師カケルの息子と娘だ。それぞれ、言葉を覚えるよりも早くから、シェンシャンや神具に触れて、既に才能を開花させつつある期待の子供達である。


 ダヤンは、ふと思い出した。数年前、アイラと久しぶりにアダマンタイトへ里帰りした際、ダヤンは王座の前で大暴れし、アイラの父、つまり自身の祖父の顔を思いっきり平手で張り倒すことをやってのけた。その場にいた全員が真っ青になって氷つく中、頭を地につけてひっくり返った王は言ったのだ。


「そうか。もう次の時代なのだな」


 ――――私の役目はもはや、ここまで。将来ある子供たちが、新たな世を切り拓く時が来たのだ、と。


 笑みすら浮かべてそう返されたダヤンは、毒気を抜かれて、へなへなとその場に座り込んでしまった。そして、悟ったのである。


 実のところ祖父は、何も考えず感情的なだけの人物ではない。全て先を読んだ上で、事を成している。きっと、母親をぶったことも、計算に含まれていたはずだ、と。


 ダヤンは、自分より、少しだけ若い子ども達を眺める。この世代は、仲間が多い。ここにはいないが、ユカリとハト夫妻のところも子がいる。遠く西の地、チグサとセラフィナイトの元にも。


 これら子供たちは、きっとこれから、様々な決断を迫られ、たくさんの涙を流し、たくさんの思いを分かち合って、必死に生きていくことになるのだろう。


 そして、自分のこと。亡き皇帝の血を引いている身だが、すっかり紫国の人間である。師ハクアから、祖父から、そして先に逝ってしまった人々の志を継いで、自分は何をすべきだろうか。何をしたいのだろうか。


 ダヤンは考えが止まらなくて、空を仰いだ。


 紫の鳥が、弧を描き、神気の海の中を悠々と泳いでいる。願わくば、この穏やかな日々ができるだけ長く守られますように。


 握る笛に力が籠もる。視線の先には、花がほころぶように笑うイロハの姿。


 これからもこの姫を、この国を、守れますように、と。



【完】

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琴姫の奏では紫雲を呼ぶ【外伝も完結済】 山下真響 @mayurayst

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