第205話 僕は弱い

 走った。その獣の名は知らない。しかし、後宮で見かけたことのある愛らしい猫や鳥というわけではない。明らかに、害のある人間以外の生き物。


 すぐに息が切れた。あ、と思った時には地面が目前に迫る。こけていた。歯を食いしばって立ち上がる。しかし、背後に迫る異様な気迫は、もう彼の命運が決まり切っていることを物語っている。


 死ぬる前に現れると言われている、走馬灯が見えた。


「ははうえ」


 けれど、いつになってもダヤンに衝撃はやってこない。いつの間にか、唸り声も消えていた。


「大丈夫?」


 ゆっくりと振り返る。つっと、膝小僧から生温い血が伝っていった。


「だれだ」

「神苑の笛吹、ハクアだよ」

「しんえん?」

「この国は神に守られてるんだ。中には僕みたいに、神の力を音色に乗せて運び、獣を操る者もいる」

「おまえが、ぼくに、獣をけしかけたのか!」

「まさか。たまたま通りかかっただけ。助けちゃまずかった?」

「いや」

「なら、よかった。父ちゃんも、いつも弱い人を助けてたから、僕もそうするようにしてるんだ」


 ダヤンは、ハクアと名乗る少年を見た。薄汚れた衣。腰帯に差してある長い笛だけが異質な空気を纏っているものの、どう見てもただの貧民だ。歳も、まだ成人しているとは思えない。そんな少年に言われてしまった。弱い人、だと。


「ぼくは、弱いのか」


 ダヤンは王子だ。紫の王宮でも、文化や技術は帝国から何歩も遅れた生活環境だが、不自由しないように衣食住を与えられ、守られ、人々にはかしづかれるようにして扱われていた。


 こんなに、あっさりと見下されたことはない。


「そうか。僕は弱い」


 ダヤンは、急に視界が明るくなった気がした。ずっと分からなかったことが、今ならば分かる気がしてくる。


「獣は、その笛で操るのか?」

「そうだよ。吹いてみる?」


 ハクアは、自身の笛をダヤンに渡してきた。


「お前、これは大切な物なんだろう? 僕が悪い人だったら、今頃奪って逃げている」

「それぐらい分かってるよ。でも、今の君には、笛が必要な気がしたんだ」


 ハクアの話す内容は、完全に人を見くびっているというのに、トゲがない。紫に来てからというもの、たくさんの人間を観察し、話をしてきたが、信頼しても良いと思えたのはこれが初めてだった。


「僕も笛を覚えたい」

「それは、嬉しい。僕も父ちゃんみたいに、いずれ誰かに継がなきゃいけなかったんだ。ちょうどいいよ」

「継ぐ?」

「そうだよ。神苑の笛吹は、琴姫の系譜よりも古くから、延々と受け継がれてきた名だ。父ちゃんに叩き込まれたから、そのうち歴史を教えてやるよ」


 ダヤンは、ぽかんと呆けていた。この少年が、只者でないことを、じわじわと理解し始める。しかも、「継ぐ」などと、とてつもないことを言い出した。五歳の頭でも、それが大事であることは、すぐに分かる。


「いや、やっぱりいいや」

「まぁ、そう言うなって。君みたいに、何か光るものがある人って少ないんだよ。っていうか、初めて見た。昔、父ちゃんに、それと出会えばすぐ分かるって言われたことあるんだけど、本当にそうなんだね」


 ハクアは満足気に頷くと、ダヤンの両手をとって、さらに、にじり寄る。


「この小さな手は、いつか大きくなって数多の人々を助けることになるだろう。それには必ず『力』がいる。その汚れ無き眼で見定めた者に手を貸すんだ。決して驕らず、卑下せず、神が守りしこの地の民のために力をふるえ。常に真摯で、誠実さを忘れるな。それが守れるならば、きっと神は、笛を通じてお前を助けてくれる」


 ハクアは、急に大人のような気迫になった。ダヤンは驚いて、ただただ目を瞠る。二人は見つめ合っていた。如何ともし難い張り詰めた空間。


 どれだけ経ったろうか。それを打ち破るように、ハクアが、へらっと笑った。


「っていうのはね、父ちゃんからの受け売りなんだ。僕は、こうして今代の笛吹になったんだよ。で、どうする?」


 荒野に風が吹き抜ける。良い風だ。いつの間にか、空も晴れ渡っている。新たな決断をするには、佳き日に思えた。


「継ぐ」


 力が欲しかった。帝国で見たような軍事的な力。アダマンタイトまでの道中で見た金の力。祖父、アダマンタイト王の政治的な力。母親をぶった、腕の力。様々な力がこの世にはあるが、ダヤンは優しくて、しなやかな力を求めていた。


 力があれば、今度こそダヤンは母親の役に立ち、母親を守ることができるかもしれない。


「僕はダヤン。皇帝の息子だ」

「皇帝?!」


 ハクアの声が裏返る。

 対する、金髪、青い目をした幼子は、凛とした気を纏った。


「僕は、この地の民になる。ハクア、弟子にしてくれ」


 いかにも異国の子供という風体のダヤン。その澄み切った瞳に決意の炎が灯った。


「分かった。笛を、シャオを教えよう」


 その瞬間、ひゅっと、人の唸り声のような音と共に、ハクアの頬から鮮血が飛び散る。ハクアはダヤンから笛を取り上げると、さっきまでの気の抜けた無邪気な少年とは思えぬ素早い動きで、地面を蹴った。


 音が広がる。

 音というよりも、体を震わせる強い波が押し寄せる。


 あっという間に、近くの林や茂みの影から、たくさんの獣が飛び出した。都方面に見えるのは、槍や弓をつがえた男達の集団。獣達は、たちまちダヤンを守る壁のように、男達の間に立ち塞がった。


「ダヤン、逃げろ!」


 ハクアが吠える。

 しかし、ダヤンは歓喜の表情を浮かべていた。


「母上だ! 母上!!」


 ダヤンは、獣達の間を縫って駆け出した。彼方に見えるのは、場違いなぐらい着飾った異国の女。ハクアは、呆れと複雑さ抱きつつ、女の腕に飛び込んでいくダヤンの背中を眺めていた。


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