第203話 本来の姿

 穏やかな朝だった。サヨが、わざわざ王宮の端にある女官が住み込んている屋敷にやってきたのは、空が白み始めた頃。スズは、既に出仕する支度を整えていたものの、突然現れた王妃の姿には、さすがに驚いた様子だった。


「スズ。私、もう大丈夫よ」


 満面の笑みが花開く。以前からコトリの側にいるからこそ霞みがちだったが、サヨもかなりの美人である。王妃らしい雅な装いと品のある仕草、そして教養の高さが見て取れる話題の豊富さや知識の量。何をとっても、スズにとってはこの国で一番だと言い切れる女人だ。


 けれど、ここのところ、ずっと塞ぎ込んでいた。憂いのある表情は、不思議な色香を纏っていて、時折よからぬ輩が湧くこともある。スズは武術の心得もあるので、それらを秘密裏に片付けているため、サヨは知らぬことだろう。


 なにはともあれ、彼女の顔から怒りや悲しみ、戸惑いや失望、全てが消え失せている。何も聞かされずとも、誰と誰がどうなったのかが、はっきりと分かるぐらいに。


「それは、良きことにございます。しかし、姫様?」


 スズの視点がサヨの衣の上を彷徨う。急いで着込んできたのか、ところどころが乱れていた。サヨもそれに気づいて、顔を赤く染める。


「まずはお支度を整えましょう」

「えぇ。王の元へ戻って、今後の事を話しせねば」

「まだ、お話されていなかったのですか? では、昨夜は何を」

「えっと、それは……」


 サヨの言葉はしどろもどろだが、全て言わずとも、スズにはお見通しなのである。決まった相手もおらず、仕事に邁進する女、スズはこっそり溜息をつくと、サヨを先導するようにして廊下に出た。


「チグサ様には、特別な御礼をしなければなりませんね」


 朝の空気は、まだ冷たい。だが、そこに差し込む陽の光の眩しさが、新しい日の始まりに華やぎを添えている。



 ◇



 スズは、王妃の部屋で衣を整えると、サヨと伴って王、ミズキの執務室へ出向いていた。


「スズ、良いものをありがとう」


 顔を合わせるなり、ミズキが微笑みかけてくる。だが、目は笑っていなかった。


「チグサ様には、王もお喜びであったとお伝えいたします」


 そっと顔を伏せる。暗に、あのお茶はスズの手配や策略でないことを示したつもりだが、王には上手く理解してもらえたかどうか。


 もし、あのお茶をサヨが一人で嗜んで、そこへ不埒な輩とたまたま出くわしていたならば、大惨事になっていた。確かにこれは、責められて然るべきなのだろう。


 しかし、優秀な王宮の女官や侍女に守られていたサヨは、完全に無事であった。何より、こうして夫婦揃って柔らかな雰囲気になれるようになったことは良きことだ。


 となると、残る懸念は一つ。否、一人だけである。

 すると、噂をすれば何とやら。件の女が、廊下の彼方から駆けてくるではないか。


「客人、朝から騒々しいな」


 夫婦仲直りのひとときを邪魔されたミズキは、不満げな様子を隠そうのもしない。


「勝手に押しかけてきた挙げ句、いたずらに長く居候を続ける娼婦のような女に、王が直々に言葉を差し上げることはありません」


 スズも容赦が無い。けれど、髪を振り乱し、肩で息をするアイラは気にも留めぬ様子で言い放った。


「あなた達、私の息子をどこへやったの? 返しなさい!」



 ◇



 事が事だ。紫国がアイラの息子、ダヤンを拉致して殺めたなどと誤解され、アダマンタイトとの停戦状態が崩れるのは、絶対に避けねばならない話である。


 サヨは、まずアイラの話を聞くことにした。


「昨日の昼過ぎまでは、部屋にいたのに……」


 アイラは初めこそ勢いがあったが、すぐに萎れた花のように小さくなってしまった。やはり、気の強い女であっても、息子が行方知れずとなるのは、相当堪えるものらしい。


 よくよく話を聞くと、ダヤンが姿を消すのは今日が初めてではないらしい。しかし、昨日は待てど暮らせど、アイラの元へ帰ってこなかった。アイラと共に紫へやってきたアダマンタイトの者達と協力して夜通し探したが、それでも見つからないと言う。


「異国の地で、一人ぼっちで、お腹を空かせて侘しい思いで私の迎えを待っているのかと思うと、もう」


 アイラも、元々紫の王宮側がダヤンをどうこうしたとは、本気では思っていない様子だ。おそらく仕方がなく、最後の頼みの綱として駆け込んできたにちがいない。


 アイラは泣き崩れてしまった。全く寝ていないらしく、かなり酷い顔をしている。


 サヨは、以前の、あの傲慢ちきな態度が嘘のようだと思った。目の前の女は、もはや自分の敵でもなければ、見栄と矜持だけで生きる派手な異国の姫でもない。


 一人の母だったのだ。


 サヨとミズキは顔を見合わせた。


「サヨ。気に入らないかもしれないが、ダヤンは王命を出して徹底的に探す。今すぐに、だ」


 これまでのサヨならば、渋ってしまったかもしれないが、今は違う。前夜、ミズキとも子供の話をしたばかりなのだ。もし、自分にも子供ができれば、アイラのように、なりふり構わず奔走することになるだろうと想像できる。


「ぜひ、そうしてください。私も、持てる伝手を全て使って探しましょう」

「ありがとうございます」


 アイラが頭を深く下げた。それは、アダマンタイトにはない、紫国特有のやり方だった。彼女がこんなことをするのは、初めてのこと。


「ダヤンさえ無事であれば、もう、私は何も要らないわ。元々、私が紫に来たのは、ダヤンを守るためなのよ」


 泣き腫らした顔のアイラは、スズが差し出した手拭いで、そっと目元をぬぐった。


「紫は、帝国と唯一張り合える国。その王妃になれば、ダヤンは帝国の後継者争いにも巻き込まれて、殺されることもないと思ってた。でも、甘かったわ」


 突然の独白。その口調は肩の力が抜けていて、本来のアイラの人となりや、本音を真っ直ぐに表している。


「あなたがたは、本当の夫婦なのね」


 アイラは寂しそうに笑った。その瞳には、寄り添うように並び立つミズキとサヨが映っている。その間に付け入る隙は、髪一本分も無いことを、ようやく悟ったのだ。


「私は、男を誘惑する方法を知っている。でも、まだ恋を知らない。ねぇ、好きになるって、どんな感じなのかしら? やっぱり、それを知っているあなたが羨ましくて、羨ましくて、仕方がないわ」

「でも、あなたは結婚していたのよね?」


 サヨが問う。


「えぇ。でも私は、あの年老いた皇帝と、あなた方のような関係にはなったことなんて、一度も無いわ。でも、生きるために、祖国を守るために、子をもうけた。そう、ダヤンは、あんな男の血を引いているの。なのに、どうしてかしら。私は、私以上にあの子のことが大切になってしまったみたい」


 おそらく、本人の中でも上手く気持ちの整理がついていないのだろう。そらに大粒の雫が、アイラの瞳から溢れては転がり落ちていく。


「分かった」


 ミズキは短くそれだけ言うと、すぐに集まってきていた文官達に指示を飛ばし始めた。


 ダヤンの捜索が始まった。


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