第201話 ハトとユカリ

 都の王宮周辺は貴族の屋敷が多く立ち並んでいる。王、ミズキの片腕であるハトの屋敷は、大路から一本東へ入った道に面した場所にあった。


 陽が落ちる時間が、だんだん遅くなってきている。まだ空に薄明かりが残る頃、庭や家屋のそこかしこに灯りが入れられて、どこか幻想的な趣きが漂っていた。


 そのうちの一室。外に面した廊下に向かって座し、御簾越しに何かを睨んでいたハトは、ふと気配を感じて背後を振り返った。


「今夜はお早いのですね」


 微かな衣擦れの音。入ってきたのは、妻のユカリだった。


 ミズキとは違い、ハトは仕事をする上で寄り道をしない。悩むこともあるが、こうと決めたら一直線。無感情に淡々とこなし、捌き、判断し、指示を下していく。冷淡だと言う者もいるが、彼自身は自らの評判など全く気にかけていない。


 故に、毎晩王宮の執務室に泊まり込むこともない。効率的に政務に励むならば、尚の事、毎日帰宅することが大切だと考えている。


 夕餉も、貴族の慣例に従わず、妻と共に食事することに決めていた。ユカリは初めこそ、酒の酌をするに留めていたが、今は堂々とハトの前で米を食み、あれこれとその日の出来事を話している。


 まるで、隙間風吹きすさぶ粗末な小屋に住む庶民が、突然貴族になって、不似合いな暮らしを始めたかのように。


 いや、実際その通りなのだ。ハトは元貴族だが、貴族故の要らぬ矜持を拗らせた両親に嫌気が差し、自ら手をかけた。その後も、読み書きできることや、都で蓄えた多少の知識は使えたが、元貴族という肩書を振りかざしたこともなければ、役立つこともなく。


 一方、ユカリは、元姫で、何か罪を犯したわけでもないのに、死んだことにされて国から放逐された。にも関わらず、命からがら生き延び、一大組織を立ち上げた強かさがあった。幼い頃に骨の髄まで刷り込まれた行儀作法などは今も健在ながら、好むものは庶民の味や風習であるのは、ひとえに貧しい暮らしが長かったからだろう。


 激動の人生を走り続けた。死にものぐるいで。ただ、志だけは誰にも渡さず、守り抜いてきた。


 だからなのか。


 結局、この二人は急ごしらえの夫婦であるのに、上手い具合に噛み合って、日々共に在る生活を支障なく営んでいる。


 そうこうしているうちに、屋敷の侍女達が、楚々とした手付きで夕餉を支度し、去っていった。いつものように二人きりになる。


「サヨ様が王宮へ戻られたらしいな」


 先に話しかけたのはハトだった。


「えぇ」


 それが何か? とでも言いたげな、涼し気な視線がユカリから向けられる。ハトとしては、これで夫婦仲が改善し、少しでも王ミズキの憂いや戸惑い、果ては政務の効率も良くなればいいのにと願うばかりである。何せ、ミズキが日中頻繁に上の空になってしまう皺寄せは、全てハトに押し寄せてくるのだから。


「ここだけの話だが、サヨ様も、拗ねた子供のような真似をなさる。心配せずとも、あの二人は唯一無二の番でしかないのに」

「あなたから、そのような言葉を聞けるなんて」


 ユカリはころころ笑った。


「何がおかしい」

「いえ。国を築き、民をまとめる手腕は一流でも、不得手なところがあるのが可愛らしいわ」


 ハトは目をぱちくりさせた。聞き間違いでなければ、自分は妻に子供扱いされたか、馬鹿にされたのだ。けれど、怒りは湧いてこない。


 以前だったら、すぐにここで何か言い返していたかもしれないが、田舎で鍛え上げられた彼女の腹の座り様は並ではない。抗えない程の気と威圧が放たれていて、何か間違ってしまったこということだけを悟るのである。


 そして、知らぬ間に、妻の尻に敷かれる旦那と成り下がるのだ。


「サヨ様にも、チグサ様にも考えがありますもの。周りがとやかく言うものではありません」

「そうか」


 ここで、ふと、考えた。ハトは、おそるおそる口を開く。


「もし、だ。もし、俺が他の女に言い寄られていたら、お前はどうする?」


 かなり勇気の要る問いだった。今の所、そんなものありえないと思っている。だが、どうしても知りたいという欲に駆られてしまった。


 ユカリは、しばらく無言で漬物を食んでいる。


「どうもしません」


 返事は短かかった。固唾を呑んで見守っていたハトが、拍子抜けするぐらいに。


「どうもしないって、ほら、何かあるだろ?」

「何を期待してらっしゃるのやら」


 こうして、また主導権を握られてしまうのだ。


「あなたが誰とどうなろうと、私は私として生き続けるまでです。もし、あなたが敵となるならば、身内であろうと容赦しないでしょうが。そういうものでしょう?」

「そうか」


 きっと、これは世間的に見て冷たい返事なのに違いない。なのに、どこか清々しい。こうやって、何食わぬ顔で女だと自らを蔑むこともなく、遠慮することもなく、渡り合ってくるところが気持ち良い。


 新たな国ができて、名実ともにハトは高貴で力のある人物になった。日々、ゴマすりをしたり、妙にへりくだって来たりする人物とばかり顔を合わせている。


 当初は、元姫であるユカリを手に入れて、いい気になっていた時期も長かった。けれど、すぐにただの女でないことは知れた。いつの間にか、心を開いていた。


 王宮でも、男女合わせたって、会う度にこんなにも何かを与えてくれる人物は、そういない。ユカリ本人は無意識なのだろうが、すっかりハトを籠絡している。


 ハトは、ほっと溜息をついた。暗いものではなく、安堵とも違う。純粋に心地良く、どこか満足な自分がいた。


 心が、高揚している。

 好いてしまったんだな、と理解する。


 まさか自分がこんな感情を覚えることになるとは、と驚いてしまうが、この手の気持ちは一度体験すると忘れがたく、中毒性があるものらしい。世の中には、好いたが負けという言葉もある。


 御簾を少し上げて、外を見た。すっかり闇夜だ。


「良い夜ですね」

「あぁ」


 それにしても、と思う。ここのところ、都の水が体に合うのか、ユカリの体はまた、ふっくらとした。はちきれそうな腕を突くと嫌な顔をされるが、その顔すら愛おしいと思う。だからこそ、疑問に思ってしまうのだ。


「子は、まだできないのか」


 尋ねるでもなく、確認するでもなく。あくまで独り言のように言う。微かに悲しみを滲ませて。


 健康であるはずだ。苦労も、させていないつもりである。なのに、なぜ。


 ユカリは、頭が痛むかのような仕草をすると、ハトの方へ向き直った。


「他所では、それを言わないでくださいね」


 理由は、教えてもらえそうにない。そんな空気がある。


「私の場合は、心当たりがあります」

「何が悪いのだろうか」


 よく、共寝している。乱暴にもしていない。


「やはり、あなたが、悪いのでは?」


 声が出なかった。意味が分からない。


「そんなわけ」

「えぇ。冗談ですとも。そういう場合もありますが、私達はまた別の理由かと」

「勿体ぶらずに、さっさと話せばいいではないか」


 戸惑いからか、ハトは動揺して、言葉が荒くなっていた。


「もし子ができれば、王夫妻に子ができた時に、近い年の信頼できる者がいて良いだろうし。そうは思わないのか?」

「それ以前に、この国は王の子が世襲することになるかどうかなんて、分からないでしょう? ミズキ様は新たな形を模索されています。二度と、この国が狂わないために」


 確かにそうだ。そんなもの、いつも近くにいるハトが一番知っている。もう貴族ばかりが優遇され、脳の無い者が私利私欲のためだけにする政治は真っ平御免。けれど、咄嗟に出た自分の言葉は――――。


 前例に染まって固定概念にまみれてるのに気づく。日頃、部下に言い聞かせていることを、妻から諭されることになるなんて、格好の悪いことになってしまった。


「そんな顔をなさらないで。皆が認め、才や縁があれば、あの二人のお子が次の王となれますでしょう。でも、人の命も、運命も、子を授かるかどうかも、すべて神にしか分かりません」

「そうだな」

「えぇ、そういうものですよ。だからこそ、私達は夫婦になれたのです」


 ユカリは、ハトの袖を引いて奥の部屋へ入っていった。自ら、衣の前を寛げて、夫の肩にしなだれかかる。やけに、積極的だ。


「一つ、あなたに謝らないといけないことが」


 ユカリは、上衣を脱いだ。腹には、いつものサラシのようなものが巻かれている。ハトは、ユカリが少しでも痩せたように見せたくて、常に身につけているのだと思っていた。


「これは、子ができぬようにするための神具なのです」

「これが?」


 そんなものがあるなんて、ハトは知らなかった。元貴族だったが、そういう色事を覚える前に都落ちしたためだ。


「とても、高級で珍しい神具なのですよ」

「ただの細長い布にしか見えぬが」


 ユカリは柔らかく微笑むと、ゆっくりと語り始めた。特別な、神具師の話を。

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