第192話 馬鹿二人

 チグサは、もう何日もセラフィナイトの元へ通っていた。せっかく様子を見に行ってやっているというのに、捕らえられているセラフィナイトは自分に媚びもしない。冷たい壁にもたれまま、気だるげに見つめ返してくる視線は、まるで懐かない猫のようだ。


 だから、何も話してやらない。視線だけ交わして、期待させて、そして最後に裏切ってやりたい。そんな黒い欲望が浮き沈みし続けていたが、ついにミズキからあるお達しが届いてしまった。


『いつまでも、サヨを害した男を紫国内に置いておきたくはない。かと言って殺してしまえば、帝国側から後々難癖をつけられても困る。早く良い使い道を見つけて、追い出してしまえ』


 セラフィナイトを見つけ出し、拾ってきたのはチグサだ。カツが率いる間諜を拝借してのことだったが、飼い主は間違いなくチグサである。


「さて、もう躾の時間はお終い。そろそろ役に立ってもらおうかしら」


 チグサは、いつもと変わらないフリを気取って、セラフィナイトのいる牢へと向かう。地下は、屋敷の中よりは寒いが、外と比べるとまだ我慢できる冷え方だった。


 セラフィナイトは、器用にも片目だけを開けてチグサをみとめると、面倒くさそうに再び狸寝入りをする。どうせまた、無言で帰ると思い込んでいるのだろう。そんな姿を目にすると、なんとも言えない優越感がチグサを満たしていくのだった。


「ねぇ、死ぬ前にしておきたいことは、何かあるかしら?」


 セラフィナイトは、驚いたように顔を上げた。だが、次の瞬間には壁と一体化するように気配を沈めてしまう。


 そう、セラフィナイトは一筋縄にはいかない。チグサのような深窓の元王女に、翻弄されてくれるわけがないのだ。 地を這うような低い声が嗤っている。


「何が面白いのよ? せっかく来てあげたというのに、失礼だわ」


 チグサは噛み付くように叫ぶ。予定通りに運ばない未来が見えて、焦っていた。


「笑わずにはいられるか。殺すのかと思えば殺さない。勝手に死ぬのを待ってるのかと思えば、ぎりぎり生きられる程度に寒い牢屋に入れる。飯も、出る。挙句の果てに、やり残した事を尋ねるなんて、こんな親切で馬鹿な国、なかなか無いだろうな」

「馬鹿はあなたよ。自分の価値を知らないんだわ。簡単に死なせてたまるものですか。ちゃんと働いていただきますからね」


 チグサは、言うべきことを言えたとばかりに、ふと肩の力を抜く。セラフィナイトは、それを完全に見切っていた。


「先に質問に答えようか」

「え、何なの」

「そちらが聞いたんだろうが。聞きたくないなら、質問するな」

「あなたに命令される謂われはないわ。本当に……嫌な人」


 チグサの頬はいつの間にか真っ赤に染まっていた。恥ずかしさと怒りと、いつの間にか自分を支配していた目の前の男への執着心が、ゆらめいて燃えている。


 負けてなるものか、と精一杯足を踏ん張るが、真正面から漂うただならぬ王者の気配は強い。次第にチグサは、気圧されていった。


「そうだな。せめて死ぬ前に、最高の女を抱きたい」

「なっ」


 ここで初めて、チグサは一人でここへ来たことを後悔する。何かが身体を突き抜けて、瞬間的に脳内が沸騰したが、ニ、三呼吸の合間にかろうじて声を出せるようになった。


「慎みのない男」


 絞り出すような呟きで、自らへ言い聞かせる。そうだ。この男は、この期に及んでチグサを軽んじて辱めようとしている逆賊である。決して、心が熱くなっただとか、嬉しさの欠片を抱いてしまっただとか、気づかれてはならない。


 だが、目だけは雄弁だ。視線はセラフィナイトへ吸い込まれて、いつになってもそこから逸らすことができない。まるで我慢比べのようだった。見えない蔦が少しずつ蔓を伸ばして、チグサを絡め取ろうと近づいてくる。


 セラフィナイトは満身創痍で、ボロを纏い、とても見れたものではなかった。それなのに、チグサが抗えない程の魅力が光を放つようにして、一人の女を捕らえて離さない。


 チグサは唇を噛み締めていたが、いつしか膝をついていた。


 崩れるようにして、うなだれる。その瞬間、頭頂を何かが勢いよく貫いたようだった。


 胸元へ流れ込んだ黒髪を後ろへやって、再び相手と目を合わせる。なぜだろう。そこには、本人ですら信じられない程に、全てを吹っ切った女、チグサその人がいた。


「最期の望みがそれならば、叶えてさしあげてもよくってよ」


 一歩、セラフィナイトへ歩み寄る。


「ほら、来なさいよ」


 浮かび上がるは妖艶な笑み。誰にも見せたことのない姿だ。

 セラフィナイトも、この態度には虚を突かれたようで、戸惑った面持ちで固まっている。


「さぁ、何を迷っているの? 私以上に最高の女なんて、この世にいないわ。そうでしょう?」


 こんな大胆な台詞、吐いたことがない。いつしか、一世一代の大勝負となっていた。


「でも、条件があるわ。あなた、皇帝になりなさい。それさえ約束すれば、抱かれてあげても良いと言っているの」


 今度こそ、やり切った。チグサは胸元で両手を結び、静かにセラフィナイトの答えを待つ。破廉恥な問をした後とは思えないほど、無垢で、清やかな眼差しが向けられていた。


 しかし囚人は、チグサの心をまたもや、へし折るのである。


「なぜ? なぜあなたは、また笑うの?」


 セラフィナイトは、声を出さず、こらえるようにして腹を抱えていた。


「お前、正気か? 思ってたよりも、根性あるじゃないか」

「そちらこそ、頭がおかしくなっているのではなくて? 私の要求の大きさが分からないなんて、やっぱり馬鹿なのかしら」

「何度言わせる? 馬鹿は、どっちだ?」


 すぐさま、チグサの怒りは膨れ上がっていった。自分の貞操をかけた交渉は、これ以上ないぐらいに重い意味を持っている。なのに、この男ときたら。


「あなた、今の自分の立場を全く理解していないようね。主導権は、私にあるのよ。間違えないで!」

「でもなぁ」

「何よ。そんなに早く抱きたいならば、さっさとやりなさい!」


 セラフィナイトは、呆れ半分でチグサを舐め回すように眺める。


 これは、ソラに長く潜伏していたから分かることだ。この女は神具師としても腕がありながらも、職人気質とは一線を画す華やかさがある。見事な絹織物の衣を品よく組み合わせていて、日頃であれば決して隙を見せない凛とした出で立ちの美人であり、賢女。生半端な男では、まず踏み入ることのできない、秘密の花園のよう。


 それが今、彼を自ら迎え入れようとしている。

 あまりにも甘美な誘い。


 セラフィナイトは、一瞬唾を飲み込んで考えた。だが、答えは変わらなかった。


「自暴自棄になっている女は、最高とは言えない」

「なっ」


 またもや声を失くすチグサ。そこへセラフィナイトが畳みかける。


「こちらにも条件がある」


 この時には、どうしてかセラフィナイトもすっかり腹が座っていた。ずっと牢屋の中で一人、これまでのこと、今のこと、これからのことについて考えてきたが、ようやく覚悟が決まった瞬間である。


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