第190話 アイラの事情

 一方、アダマンタイトの姫、アイラの苛つきの凄まじさと言えば、ミズキなどの比ではなかった。


「もう、いったい私はどうしたらいいのよ? こんな所に閉じ込めるぐらいなら、さっさと殺してくれたら楽になれるのに」


 むしゃくしゃするあまり、髪を振り乱して癇癪を起こすアイラ。そこへ伸びる、壮年の女性の手があった。


「滅多なことをおっしゃらないでください。目的や希望を忘れてはなりませんよ」

「マリー」


 アイラは、ふと我に返ったかのように硬直する。


 マリーは、アイラが幼少の頃からずっと付き従ってきた侍女だ。そろそろ引退しても良い年齢なのだが、帝国への輿入れの際にも同行し、帝都の宮殿でも苦楽を分かち合った戦友でもあり、第二の母とも呼べる存在だった。


 マリー自身も、長年アイラの心の拠り所となってきた自覚はあるので、異国の地で果てることになる決意で、此度も共にやって来た次第である。


「でもね、マリー」


 マリーの厳しい眼差しを受けたアイラは、年相応の若い娘らしく、小さくなって震えている。ミズキたちの前での去勢は鳴りを潜めて、すっかり弱音を吐くばかりの負け犬に成り下がっていた。瞳にも光が無い。ただただ静かで空虚な異国の部屋が、彼女を押しつぶすように圧迫しているかのよう。


「お父様達は、ダヤンを守りたいならば紫国を利用するしかないって話していたわ」


 そもそも紫国までやって来たきっかけは、息子のダヤンが同じ皇帝の息子である他の王子から命を狙われたことがきっかけだった。刺客が差し向けられたのだ。しかも、堂々と第一王子の手の者だと口上を述べた上で、襲い掛かってきたのである。


 今、帝国では激しい後継者争いがなされている。ダヤンはまだ四歳で、帝位につく意思なども持ち合わせていない。そもそも、まだ国や皇帝というものが何たるかすら、分かっていない可能性の方が高い。


 それでも、大国の頂点に君臨することを望む者達からすれば、不安材料の一つとなるらしい。自分の障害となりそうなものは、小さな命ですら構わず、根こそぎ刈り取るという構えなのだ。


 ダヤンは、天真爛漫な可愛い息子だ。皇帝はただの高慢ちきな老人であり、一瞬たりとも愛し愛されることはなかったが、こんな息子を授かることができたことだけは感謝しているアイラである。


 だからこそ、守らねばならない。

 迫りくるあらゆる全ての悪から。


 それには、紫国はさまざまな意味でうってつけだった。帝国の意を受けて正面対決したアダマンタイトを、驚きの力で捻じ伏せた事実がある。


 アダマンタイト側は、兵達も身体を損ねることなく終戦したものの、武器という武器が錆びたり壊れたりして使い物にならなくなった。さらには、出兵した者達も半年以上経った今でさえ、未だ虚ろな表情で、日がなぼんやりするしかできない人間になってしまったのだ。それは、まるで生きて死んでいる屍のようだった。


 本当に穏やかな戦だった。遺された物も者も、どれも静かでゆったりと流れる時の中に取り残されているかのような。何もかもが未知の不思議な雰囲気を纏っている。


 それだけに、その異質さがアイラを恐れおののかしていると同時に、味方に引き入れれば心強いのではないかと考えてしまうのである。


「もしも、帝国軍の本隊がやって来ても、紫国ならば蹴散らしてしまうのではなくて?」

「えぇ、それ程の強さがあるからこそ、早く停戦と未来永劫の領土不可侵、そして不戦の取り決めをせねばならないのです」

「そうね」


 ミズキにはよく会いにいっている。領土を拡張する意思が無いことは確認済みだが、不戦についてはまだだ。


 もし、アイラを正室に据えてくれれば―――――。


 そうすれば、さすがに妻の母国を害することはできなくなるだろう。そして息子のダヤンにも、これまで通り王子として何不自由、大切に育て続けることができる。何より、帝国圏外の国の者となれば、帝国の物騒な後継者候補達も、多少手出しがしにくくなるだろう。


「私は、負けない」


 アイラは自らの美しさ、その使い道をよく知っている。あの皇帝でさえ陥落させ、子まで授かった実績をもつ女なのだ。幸いミズキは亡き前夫のような老人ではなく、まだ若い男。蹴落とさねばならない女もサヨ、ただ一人。いつものように振る舞えば、紫国の王宮がアイラのものとなる日も遠くないと思えるのである。


「守りたいものがある限り、死んでも戦い続けるわ」


 紫国では、まだ文化もなれなければ、言葉も完璧だとは言えない。現状の扱いも酷いものだ。


 しかし、これまでも数々の修羅場を抜けてきた。


 一人娘として、国民の大きな期待を背負って成長した少女時代。突然、年の離れた弟が生まれたかと思えば、帝国との開戦と敗戦。


 停戦の条件として家族との別れを惜しむ暇すら与えられず、皇帝の妻の一人に据えられて、他の妻達との攻防を繰り広げながら後宮を生き抜いた。


 アダマンタイトの未来のため、皇帝の世継ぎはまだ授からないのかと、頻繁に実家から手紙で責め立てられ、ようやく産んで少し大きくなったかと思えば、今度は我が子の命が狙われる羽目に。


 この約二十ニ年間、何度も死にたくなったし、死にそうになった。それでも生きてきた。いつも、何かの使命を帯びていた。そして今も、故国と息子の未来が、この華奢な肩に重くのしかかっている。


「心配しないで、マリー。私は、やらなければやらないし、やりぬくと決めたのよ」


 拳を力強く握りしめると、改めての誓いを胸に刻むのだった。


「そういえば、あら?」


 アイラが辺りを見渡す。その日焼けの知らない顔から血の気が引いて、さらに真っ白になった。


「ダヤンは、どこに行ったの?」



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