第140話 ワタリの今
ワタリは、もはや、都に戻る自分の姿を想像できずにいた。
ここは香山。春の訪れは、都よりも少し遅い。父王は、先日王宮へと戻っていったが、彼はここに留まった。
香山はまだ、ソラとの境にある山の頂付近に根雪を望むことができる。着ている衣もまだ冬用のものだ。
「ワタリ様」
足元で女の声がする。広い寝台の上。派手な簪で飾り立てた妓女が、半裸でワタリの下半身に縋りついている。
「もっと相手をしてくださいまし」
そう甘い声で囁くこの女の名は、カンナと言った。ソラ生まれの妓女で、数年前から香山にある妓楼にいるらしい。ワタリが王の癇癪に疲れて、たまたま呼び寄せたのだが、今はなぜかこうしてワタリから離れず、半ば住み着いている。
ワタリも、名を交換した女を都に残していたが、カンナを前にすると、そのような存在は記憶の彼方に消えてしまう。単に、知己溢れる話し上手で聴き上手というだけではない。まず、顔がワタリの好みにぴったりと嵌っていたのと、なかなか身体を許さなかったところも良かった。もちろん、彼女を妓女たらしめる舞踏の技量も素晴らしい。
「後でな。母上からの文を読んでいるのだ」
ワタリがカンナの顎先に指を滑らせてやると、彼女はうっとりとした顔をする。極上の時間。
機嫌を取って、少しずつ警戒を解いていき、女を攻略していくという作業は、雪に閉ざされた娯楽の無い辺境の宮において、この上ない気晴らしになっていた。今では、カンナも完全にほだされたらしく、日がな猫のようにまとわりついては、懐いてしまっている。
ワタリの経験上、こうなってしまえば、すぐに飽きてしまうかと心配していたが、未だ暇を感じさせないぐらいに、愛で続けることができていた。生まれは卑しいかもしれないが、妻にしてやってもいいかもしれない。そう思えるぐらいには、既に心を開いているのである。
「正妃様はお達者なの?」
カンナが尋ねると、ワタリは文に視線を落としたまま頷いた。
「あぁ、相変わらずのようだ。どうやら都は大変なことになっているらしいが、あの人ならば上手くやっているのだろう。だが、知っての通り、私は我が国の次期王だ。万が一、つまらない事に巻き込まれて、害されるようなことがあってはならない。故に母上は、今しばらくこちらで身を守っていた方が良いと仰せでな」
「あら、大変なこととは何かしら? 心配ですわ」
「何、大したことはない。妹が帝国へ行って、周りがゴタゴタしているだけだ。母上はご存知なかったようだが、これは元々決まっていたことだからな」
「まぁ、妹君がいらっしゃったなんて」
ワタリは、ようやくカンナの方を見る。
「お前が知らぬのも無理はない。宮中行事にも顔を出さない、非常識で存在感の薄い娘だからな。母親も庶民の出で、口を開けば生意気なことばかり。せいぜい父上の役に立てばいい」
「そうでしたの」
カンナは、ワタリと同調するように頷いてみせたが、内心は穏やかではなかった。
カンナ。彼女は、かつてイチカが所属していた一座の仲間である。
イチカから連絡が来たのは昨年の暮れ。コトリ姫の専属の諜報員になったとの報せだった。カンナはソラの生まれでクレナの出身ではないが、今の働き口があるクレナが倒れるとなれば一大事である。
王の悪政についても、店の客達からよく聞かされていた。王を痛い目に遭わせてやりたいというイチカの気持ちは、よく分かる。さらには、国が滅んで再生するという時代の潮目に関われるのは、とても面白い事に思えたのだ。
そこで、イチカの依頼通り、ワタリと接触することになった。どうせ、この不良王子は、王の機嫌取りすらこなせず、妓楼の女を召すことになるだろうというイチカの読みが、当たった形である。
会ってみると、王子だというのに品性が欠片も無い。外見も噂以上に凡庸。威厳も無く、自分よりも弱そうな人間を見つけては苛め抜くといった、器の小さい男だ。何とか篭絡して香山に引き留め、コトリ姫の気鬱を少しでも晴らせるようにしたかったが、気乗りしないせいで、なかなか上手くいかなかったのは仕方がない。
しかし、そんなツンな態度がなぜかワタリに受けてしまい、今では寵愛と言ってもおかしくない程の扱いを受けている。けれど、中身が中身だけに、いくら王族とは言え、身請けされたいとは思えなかった。
長く一緒にいるにも関わらず、そういったカンナの本心に全く気付かないワタリ。どこまでも残念な男だが、遠回しに母親からも遠ざけられ、父親からの庇護も中途半端で、第一王子にも関わらずまともな部下すらいないのは、少々気の毒に見えた。
それ故カンナは、そんな駄目さに少々の情けをかけてやるのである。
「ワタリ様。私は貴方様の御身が心配です。全てが終わって平和になるまで、ここにいてくださいな」
クレナという国と、その王が消え、神の力が再び全土に浸透するその時。ワタリという王子の居場所は、今度こそどこにも無くなってしまうだろう。だが、こんな辺境にいれば、ひっそりと王子という姿を消して、別の人生を始めることができるかもしれない。つまり、民からこれまでの暴挙を責め立てられて、悲惨な最期を遂げることを回避できる可能性がある。そういった、あくまで夢を、見せてやることも吝かではないと思うのだ。
「もう、帝国のことも、妹君のことも、お忘れください。ね?」
妓女として培った渾身の笑みを浮かべると、ワタリは初心な娘のように頬を赤らめた。
その裏で、カンナは思う。イチカは今、コトリが帝国へ攫われたことを知っているのだろうか、と。きっと多くの者がコトリを探して、動き出していることだろう。しかし、ろくに他国へ行ったことが無いクレナやソラの人間が帝国圏へ向かったところで、おそらく為す術がない。何しろ、文化も違えば言葉も違う。
けれど、イチカならばどうだ。彼女は土地勘がある上、世渡りも上手い。
ただ、一つだけ懸念事項があった。イチカはあくまでコトリの直属。紫といった組織とは一応協力関係にあるのだが、あまり顔は知れていないはず。手を借そうとしたところで、王女の密偵であることを証明できないばかりか、反対に帝国の手の者だと怪しまれてしまうかもしれないのだ。
どうしたものかと考えながら、カンナはさりげなくワタリから距離をとる。この後の舞のために、衣装を着替えるのだと言って部屋を後にすると、屋敷の中に与えられた彼女の自室へ向かった。
「姫を救出するのが女、っていうのも面白いわよね」
すぐに卓へ向かう。カンナは流麗な文字で、イチカへの文をしたため始めた。
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