第136話 二番手のハナ

 こうして新たな首席は、正式にコトリと決まった。正妃は舞台の上へ自ら向かい、首席の証である小さな鏡をコトリへ手渡す。表面には、シェンシャンを模した柄が入っていて、今年の年号が入っていた。


「私ができるのは、ここまでです。後は自分でしっかりなさい」


 コトリは、そう告げた正妃に、アヤネの姿を垣間見る。まるで、自分の母親のような、厳しくも優しい口調だったのだ。こんな声のかけ方をされた事は初めてである。


 その後は、他の楽師達に守られるようにして、コトリは鳴紡殿へと戻った。今や、カナデがコトリ姫であることは知れている。それまで田舎娘として無下にしていた者達も、気を引き締めてコトリに侍っているのだった。


 一方、ハナ達は、どうやら、正妃からの咎めを受けることになったらしい。姫空木殿の紋入りの書簡を手にしたキツイ眼差しの文官が、武官を引き連れてやってくると、全員を簡単に拘束して、どこへやら連れ去っていく。


 しかし、夕方になれば彼女達も自らの部屋へ帰ってきてしまった。確かに、他の派閥の曲を勝手に盗んで奏でたのは嫌がらせであるが、大きな罪にはならない。良い曲なので、自分達も練習して弾いてみたのだと悪気なく申せば、それ以上追及することができないのだ。


 ハナ達に譜面を漏らしていたカヤは、未だに紫が拘束しているが、それ以外の者は悪びれることもなく、素知らぬ顔で寛いでいる。それに我慢ならないサヨは、部屋に一人コトリを置いて出かけてしまった。今後に関して、ミズキや紫と話し合うことがあるらしい。


 コトリは、椅子に座って、戸棚に飾ってある小鳥の置物を見つめていた。いつまでも、羽を閉じていて、飛びたとうとしない小鳥。ハナから貰ったソラの土産だ。


 どうしてハナは、ここまでの事をしたのだろう。そこまで恨みを買うような事をした覚えがないのだ。あの舞台上から見下すように投げかけられた、いやらしい笑顔が、いつまでも脳裏から消えてくれない。


 そして、王の言葉。ふと冷静に考えると、あの父親が正直に約束を守ると考えていた自分が馬鹿だったのかもしれない。いつの間にか参加していた帝国の使者とのやり取りを見ていても、ちゃくちゃくと国を売る準備が進んでいることが分かる。きっと、いつもあのようにして口車に乗せられているのだろう。そして、そんな彼を諫めてくれるような人もいない。そのような者は皆、死んでしまったのだから。


 吐いた溜息が、冷たい春の夕暮れに溶けていく。


 そんな中、コトリの部屋の戸を叩く者がいた。警戒しつつも開けてみると、立っていたのは薄らと見覚えのある者。


「ハナ様のところの侍女さんかしら?」


 そもそも、名を名乗らない時点で、コトリはもう少し訝しむべきだったのだ。対する女は、頷くと用件を口にした。


「ハナ様が、此度のことで謝罪なさりたいと仰せです。お部屋までお運びいただけますか?」


 ここでサヨならば、悪いと思うならばそちらから頭を下げに来れば良い、こちらからわざわざ出向くことは無いと言って怒るところなのだろう。しかし、コトリである。ハナも悪い事をしたと思っているのならば、面会する機会ぐらい用意してやってもいいと思ってしまった。


 さらには、カヤからハナへ伝わっていた譜面は元々不完全なものだったので、あれ程に酷い演奏だったのかもしれない。だとすると、完成形を教えるべきだ、とコトリは瞬時に考える。

 となれば、シェンシャンも持っていくべきだろう。


「分かりました。支度をしてから参りますので、お部屋でお待ちください」


 コトリは一度侍女を部屋へ帰すと、自室の片隅に目をやった。実は、ルリ神とクレナが降りているシェンシャンが、ちょうど鳴紡殿へ帰って来た際に、手元へ戻ってきていたのだ。


 王女時代から長く付き合いのある国宝のシェンシャン。そして、ヨロズ屋ソウに作ってもらった、アジサイ柄の若干地味なシェンシャン。今となっては、アジサイ柄の方が弾き込んでいると言えるかもしれない。


 コトリは、ルリ神の気配が強い方を手にすると、布袋へ丁寧に仕舞い、簡単に服装の乱れを確認した後、部屋を出た。



 ◇



「来てくださってありがとう。今日はお疲れさまでした」


 部屋へ向かうと、ハナはコトリを姫だと知ったからなのか、やけに恭しい所作で対応する。すぐに茶が用意され、卓の上には季節の果物も並べられた。侍女は、少し冷えると思ったのか火鉢に炭を入れている。床の敷物は以前来た際とは変わっていて、より高級そうな帝国系のものに変わっていた。


 それらを眺めながら、コトリはハナの向かい側に座る。


「ハナ様もお疲れ様でございました。でも」


 歓待されているからとは言え、やはりコトリも言いたいことがある。


「私達が作った曲をあのような形で披露されるのは、不本意でした。本来ならば」

「分かっています。本当に難しいし複雑ですけれど、良い曲ですもの。真似をすると言っても、全くできませんでした」

「こんなことならば、事前に完全な形で曲をお教えして、弾いていただきたかったぐらいです」


 ハナは、コトリの返事にびっくりした顔をする。コトリは、曲を盗んで真似たことではなく、曲ときちんと向き合っていなかった態度を責めていたからだ。普通であれば、もっと言うべき事があるだろう。不要な身体検査に始まり、シェンシャンの強奪、女官の態度など、咎められて然るべきことは山程ある。


 なのに、この世間知らずなシャンシャン馬鹿の姫は、何も言わないのだ。まさか全て水に流したわけではあるまいが、あまりにの寛大さに、むしろ阿呆なのではないかと思えてしまう。半ば呆れてしまったハナは薄笑いしそうになるのをぐっと堪えて、コトリのシェンシャンの包みに視線を遣った。


「でしたら、今からでも教えてくださらないかしら。あの曲は、もっと大人数で奏でても雅だと思いますし」


 コトリが元よりそのつもりだったのを見抜いて言ったのだ。


「えぇ、喜んで。この曲は弾くのに若干のコツは要りますけれど、慣れてくるとその難しさが心地よくなるのですよ。新たな首席としては、ぜひ皆さんにその感覚を味わっていただきたいのです」


 すると、ハナは一瞬顔を強張らせる。笑顔なのに、笑顔ではない、微妙な間ができる。


「首席……」


 怨霊めいた呟きに、コトリは気づかぬままシェンシャンの袋の紐を解いていった。ゆるやかで、楽し気な手つきを、ハナは忌々し気に見つめる。


 悲願である首席の座についたコトリと、策を講じたにも関わらず及ばなかった二番手のハナ。アオイが首席だった時代から、ハナはずっと二番手だった。なのにコトリときたら、入団一年目で首席を勝ち取ったのである。


 ハナの拳は、衣の袖の下で小刻みに震え続けていた。これは、怒りであり、妬み。それをコトリに悟られぬよう、ぐっと押し殺す。急いては事を仕損じるとも言うのだから。


「でも、まずは互いの労をねぎらって、お茶にでもしませんこと? 良いものが手に入りましたの」


 ハナの声は、若干低かった。


「あら、どちらの?」


 コトリも茶には詳しい。淹れるのも上手いが、飲むこと自体も好きなのだ。以前、このハナの部屋でふるまわれた茶も、なかなかに美味だった。


「飲んで当ててみてくださないかしら?」


 時を見計らっていたかのように、侍女が茶器を運んでくる。白い湯気が、立ち上っていた。何か大切なものを覆い隠して、見えなくするかのように、コトリの目の前を少し霞ませる。


「どうぞ」


 ハナが器に茶を注ぐ。クレナでは珍しい、赤味の強い色だった。


「良い色ですし、良い香りね。とても甘い」


 コトリが上品な仕草で嗅いでいる。そして、器を口につけた。


 ハナが、ねっとりと笑う。


「えぇ。本当に甘いわ」


 次の瞬間、コトリの身体が崩れ落ちる。熱い茶が入った器が床へ放たれて、大きな音を立てて砕け散った。赤茶の飛沫が、同じく赤茶の複雑な柄の絨毯に染み込んでいく。


 ハナは、足元に転がるコトリを虫けらのように見下ろしていた。


 正妃の前へ乱暴に引き出された際、コトリへの仕打ちを問い詰められたばかりか、弾き手としても才能が無いなどと貶されたことを思い出す。こんなに簡単に無力化できるのであれば、王の指示などを待たずに、もっと早く帝国の薬を盛って、どこかへ閉じ込めておくのだったと思ってしまう。


 いや、そんな事では留飲は下がらない。


 ハナは意識を失っているコトリの懐を探ると、首席の証となる鏡を見つけ出した。それを手に取り、力いっぱい握り締める。


「首席は、私よ」


 その後、ハナは、侍女に命じて、待機させていた実家の下働き数人を呼び寄せる。コトリは荷箱に詰められると、夜霧に紛れ、ひっそりと鳴紡殿から姿を消した。


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