第123話 助け舟

 カケルが、サヨの元を去っていった。ひりつくような肌の痛みが引いていく。それ程に、彼の怒りは空気を棘に変えていた。


 今年の宴は、もはや続けることが叶わないだろう。誰もがそう思った頃、クレナとソラの王族が座す広間の真ん中を仕切るように、再び御簾が降ろされる。それは、ニ国の決定的な分断と溝を示しているかのようであった。


 サヨが顔を上げた。だが、すぐにまた、床へ叩きつけるようにして、再び頭を下げる。


「何をぼけっとしている。早く苧環(おだまき)の間へ向かえ! お前の出来の悪い主を迎えに行くのだ」


 目の前に立っていたのは、正妃だったのだ。


「それはどういう」


 確か、苧環の間は、王と正妃が滞在する部屋の近くだ。まさかこのような時に彼女から話しかけてくるとは思わず、サヨの理解はなかなか追いつかない。だが、おそらく心身共に傷ついていると思われる主コトリの元に、早く駆けつけねばならないというのは、その通りなのである。


「ありがとうございます」


 サヨは弾かれたように立ち上がると、すぐに部屋の外の回廊へと急いだ。


 正妃は助けてくれたのだろうか。

 サヨの頭の中は、未だに混乱している。


 正妃の実家、姫空木殿は紫に加担することとなった。正妃は長女で、その父親が長らく当主を務めていたが、数年前に身罷り、今は彼女の弟が家を取り仕切っている。しかし、王家に嫁ぎ、正妃という高い位につく姉の顔色を常に伺っているような者だとの報告は受けていた。となると、正妃自身が紫との合流を望んだことになる。


 だが、それを完全に鵜呑みにすることはできない。


 何せ、王宮にいた頃、サヨは正妃から直接、コトリを彼女の宮から極力出さないようにすることや、季節の行事にも参加させないことを厳しく言い含められたこともあるのだから。その際の冷徹な眼差し、言葉は今思い返しても寒気がする。


 となると、やはり傾いて滅亡の道を辿り始めたこの国で、次の世にも家を残そうと思えばこその政治的判断なのではなかろうか。決して、コトリ個人に肩入れしたものではないだろう。そして、少しでも情勢が変われば、離反する可能性もある。


 サヨは顔色を悪くしたまま、記憶を頼りに目的地を目指した。宮の外から圧迫するようにして流れ込む冷たい空気が、彼女の心を刺すようにして抉っていく。



 ◇



「コトリ様!」


 御簾を上げて中へ転がり込むと、コトリは中央にそっと寝かされている状態であった。胸元を規則的に上下させ、気絶したように眠っている。


 さすがに殺されはしないと思っていたが、その姿を前にすると安堵のあまり涙が溢れそうになった。


 コトリの周りには、数人の侍女が控えている。目をやると、そのうち一人がサヨを落ち着かせるように微笑みかけてきた。


「こちらの手の者が、すぐにコトリ様から王を引き離しました。強く握られたことで、少々腕が赤くなっておりますが、大事はありません。念の為、腫れを抑える軟膏を塗ってあります。気分を落ち着かせるための香も焚きましたが、余程お疲れだったのか、すぐにお休みになられてしまいました」


 何とも行き届いた配慮である。しかし、「こちら」とは、どちらであろうか。


 その時、背中にざわりと新たな人の気配を感じて、サヨはおそるおそる振り向いた。


「正妃様」

「こんな時に眠れるなど、相変わらず図太い娘だな」


 正妃は、コトリへずいっと近づいて、その華奢な顎に手を添えている。サヨは、コトリを害されるのではないかと思って止めに入ろうとした。だが、正妃の手は、言葉とは裏腹に、慈しむようにして優しくコトリの頬の輪郭をなぞっていた。


「大きくなったものだ」


 どこか過去を懐かしむかのような呟き。その雰囲気の柔らかさに、サヨは過剰な警戒を解くことにした。


「サヨ、と申したか」

「はい、正妃様」

「私がすぐに手を回せたから良かったものの、そうでなければ今頃、この娘はもっと無体な真似をされていたかもしれぬぞ」

「申し訳ございません」


 ただただ不測の事態に驚いて、おろおろするだけだったサヨ。そんな場面にも関わらす、冷静に適確な指示を出していた正妃の手際の良さには、目を見張るものがあると同時に、己の未熟さを恥じるしかない。


 正妃は、コトリの様子を観察し終えたのか、改めてサヨの方へ向き直った。


「本当に愚かな。確かこの娘は、護身のための神具を持っているのであろう? なぜ今日に限って身に着けさせておかなかった」


 これは、サヨ自身も悔いていたことだ。しかし、致し方のない理由もあったのだ。


「実は、都からついてきたコトリ様の侍女は私一人でしたので、宴のためのお召変えなどは、王から下された別の侍女たちの管轄となってしまい、手出しができなかったのです」

「では、それらの侍女は、私のところにいる者と入れ替えさせよう。王のことも、心配いらぬ。後ほど私から窘めておく故、お前達のようなお騒がせ者は疾くここを出て、都へ帰ると良い」


 サヨは顔を凍りつかせた。まさか、未だコトリが臥せっている状態で離宮の退去を求められるなんて、あまりにも横暴だ。しかし、とサヨは考える。


 今は正妃の機転で王を遠ざけているが、同じ宮の中にいる以上、いつ何時再びコトリに接触してくるか分からない。当たり前の事なのだが、王はこの国の最高権力者。誰もが、その指示に抗うことは許されないのだから。となると、言われた通り、早く鳴紡殿に帰った方が、身の安全を図れるだろう。


「ありがとうございます」


 これは、サヨの本心だ。けれど、やはり引っ掛かるところがある。


「ですが、なぜ正妃様は助けてくださったのですか」


 サヨのような侍女の分際でこんな事を問うなど、身の程知らずかもしれない。けれど、今後のことを思えばどうしても本人に確かめておきたいのだ。


 正妃はあからさまに不機嫌になった。


「故人との約束があるので、仕方なくです」


 故人と聞いて思い浮かべるのは、コトリの母、アヤネのことだ。しかし、約束なんてものをする程、その二人は仲が良かったのだろうか。同じ妃とは言え、貴族の出と庶民では、天と地程の差がある。しかもアヤネは、五人目の妃だった。通常、王に必要とされている妃は四人なので、かなり例外的存在なのだ。


「卑しい娘に付き従わねばならぬとは、お前も苦労するだろうが、精々守ってると良い」


 そう言い残すと、正妃は衣の裾を翻し、部屋を出ていこうとする。


「お待ちください!」


 サヨは追いすがった。


「何だ? 私も忙しいのだ」

「正妃様は、コトリ様のお味方だと考えてもよろしいのでしょうか」


 もう、決定的な質問をするしかなかった。のらりくらりと交わされ続けては、いつまでたっても紫、そしてコトリの立ち振る舞いの方針が立てようがない。


 正妃は、暫時顔を強ばらせたが、はっきりと返事する。


「何も知らずにいる方が、上手くいくこともある」


 そのまま、サヨの返事を待たずに、今度こそ御簾の向こうへ消えていった。立ち尽くす、サヨ。


「姫様、もう恐れることはありません」


 少なくとも、正妃はサヨの問を否定することはなかった。


「次へ、向かいましょう」


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