第53話 菖蒲殿当主

 その日はコトリも疲労困憊のため、一度菖蒲殿の屋敷に下がることとなった。そこは本宅からも離れていない都の一等地で、目立たぬように、脇にある下女専用の出入り口から中へ入る。すると、朝からコトリを迎えるために数人の女が控えていたらしく、すぐに足を拭くための水と布を持って寄越した。


 足元がさっぱりしたところで屋敷に入る。神と会うために纏っていた豪華な衣を脱いで室内用のものに着替えると、庭を臨む一室に昼餉の席が用意されていた。


 コトリが食べ終わると、椀などを下げる女と別にもう一人、女がやってくる。どうやらこの者が下女の中では一番偉いらしい。


「夕暮れには、菖蒲殿よりご当主様がいらっしゃいます」

「分かりました。出迎えの準備は任せます」


 やって来るのは、サヨの父親だ。名はザクロと言う。今の王には妃として娘を宛行うことはできていないものの、先代王の姪にあたる女を妻としており、中央に仕える文官にも彼の身内は多い。自身もサトリと肩を並べる大臣職にあり、今は武の方面にも勢力を拡大しようと、サヨをマツリに近づけているところだ。


 最後に会ったのはいつだったか。記憶では、人当たりの良い落ち着いた御仁であるが、噂では見た目以上の切れ者だと聞く。


 きっと此度コトリを受け入れたのも、様々な思惑があってのことだろう。何かを要求されることも考えられる。


 コトリは王女にも関わらず、ほとんど表舞台には出る機会に恵まれてこなかったので、駆け引きなどの経験は無い。どのような話になるのか想像がつかず、ただただ不安を募らせていた。



 ◇



 翌朝は、いつもよりも清々しい目覚めだった。

 御簾を上げると外の眩しい光が屋敷の奥にまで入ってくる。日の高さから鑑みるに、おそらく鳴紡殿にいた時よりも遅い起床だ。


 下女が用意していた瓶から水をとって顔や手を清めると、新しい衣をさっと羽織って着る。薄手ながら張りのある夏用の生地が、コトリの心をきりりと引き締めてくれた。


「姫様、おはようございます」


 下女が朝餉を持ってやって来た。


「本日はいかようにお過ごしですか?」


 コトリの予定に関わらず、女達は屋敷に侍っているのだが、飯の準備などの段取りがあるのだろう。コトリは少し考えてから答えた。


「本日も社に向かいます。王女として参りますので、馬車の用意を」


 コトリは随分と肩の力が抜けて、寛いでいる。女が部屋の端に下がったのを見届けると、早速箸を手に取った。


 漬物をつまみ上げると、その向こうに中庭が見える。さらにその奥には、昨日菖蒲殿の当主と会った広間があった。


 結果的に、コトリが憂いていたようなことは何も起こらなかった。むしろ、良い収穫があった。


 有り体に言えば、菖蒲殿はコトリが王宮を出て楽師団に入ったことを歓迎しているようだ。もちろん理由はある。


 まず、今の御代は遠からず破綻して、誰ぞかが王を倒すのではないか、とザクロは考えているようだ。コトリはさすがにそれは無いかと思っていたが、菖蒲殿は王が手を組もうとしている帝国を全く信頼していないらしい。


 確かに、これまでの帝国は、他国と同盟を結んでも最終的には武力をもって制圧し、その支配下に収めてきた。クレナだけが例外となるわけが無い。


 さらに、まだ帝国の影が薄い今でさえ、国中が荒れ果てて、民に元気は全く無い。災害も多く、産業も少なく、完全に先細りだ。外敵が無くとも、十分危うい状況である。


「では、クレナはなくなると思っておいでなのですか?」


 そうコトリが尋ねた時のザクロの反応は面白かった。


「いいえ。クレナとソラが帝国に下ることは無いでしょう。神に守られし国ですから、帝国とは別次元で在り続けるのです」

「それを父上がお聞きになると、大変なことになりそうですね」


 クレナ王は、神のことなど信じていない。帝国にあるような、論理的に説明できる技術のみが、次の世を作ると考えている男だ。

 それを知っていながら、王女であるコトリに反対の立場を見せるのは、ある意味潔いものがあった。


「ところでコトリ様。王家がなぜ王家でいられるのかご存知ですか?」

「いえ」

「楽師団です。楽師団を持つという事は、あらゆる物事を凌駕する特権なのですよ」


 ザクロ曰く、神の声を奏でる楽師団は、古では社の巫女のような位置づけであったらしい。初代王クレナも、その業を独占することで国をまとめてきた。


 今ではコトリも、神という存在やその奇跡を目の当たりにしたからこそ、その偉大な力やザクロの言葉の意味を誰よりも理解できる。


「ですから、もし現王がお隠れになっても、その血を引くコトリ様が楽師団におられることで、我が国はまだまだ希望を持つことができるのです」


 ザクロの視線。コトリは課された期待の重さに気づき、怖じ気づきそうになった。けれど、王女としても、奏者としても、誰かに望まれるという事は嬉しいものである。


 王宮の中では、肩身狭く生きてきた。得意のシェンシャンが父から認められず、悲しい思いを繰り返してきた。しかし今、積み重ねてきた努力が実を結ぼうとしている。


 本来、父親が亡くなる前提での話に心躍らされるなど、あってはならないこと。分かってはいるものの、コトリの胸は高鳴っている。


 父さえいなければ、自由にカケルとも会えるかもしれない。自分のシェンシャンをもっと活かせるかもしれない。


 ずっと抑圧されてきた心が今、ようやく開放される。


「父は、あまりにこの国の真実から目を逸らしすぎて、独りよがりになっています。私は次の代のために、強い力を持つことは吝かではありません」


 国のために、そして自分のために、父を葬る覚悟を決めた瞬間だった。


「そのお言葉をいただけて安心しました。今後、菖蒲殿は、コトリ様にお仕えいたします」


 ザクロが頭を垂れる。

 それは、まるで王に対するものであった。


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