第52話 もはや異常
コトリはシェンシャンを弾き続けた。音の神の眷属達と少しでも音が合わなければ、音の神の手から何か光る鞭のようなものが飛んできて、弾片を持つ右手が腫れ上がる。しかし、すぐにそれは癒やされて、また最初から弾き直し。もう、何度目の演奏かなんて、百を超えてからは数えられていない。
次第に意識が朦朧とし、何も考えられない状態で弾くようになった頃、ようやく音の神はコトリに合格を言い渡した。
長かった。もう何日経ったか分からぬ程の時の流れ。安心して気が抜けてしまったのか、疲労が一気に押し寄せる。ついには視界が暗くなり、コトリは意識を手放した。
◇
「姫様! 姫様!」
コトリが薄らと目を開ける。ぼんやりと見えたのは血相を変えたヤエの顔と木板の天井。少し離れた所には、不安そうな眼差しを向けるスバルの姿もある。
「あの、私」
コトリはヤエに支えられて、どうにかその身を起こした。しばらくすると揺らいでいた視界もはっきりとして、頭もすっきりしてきた。見回すと、ここは本堂の中のようだ。ようやく帰ってこれたことに心底安堵する。
ヤエは、気づかわしげにコトリの顔を覗き込んだ。
「大事ございませんか? 突然お倒れになったので心配しました」
「ありがとう。大丈夫よ。私、どれぐらい倒れていたのかしら」
「十数える間ぐらいの、短い時間でした」
あれだけ長かった特訓が一瞬だったなんて。神に連れ出された白き異空間では、時がほとんど止まっていたのだろうか。不思議なこともあるものだ。数週間行方不明扱いになっているかもしれないと覚悟していただけに、改めてほっとするコトリである。
「では、今度こそシェンシャンを弾いて、神とご対面されますか?」
コトリはくすりと笑ってスバルに答える。
「いえ、もう会うことが叶いました。詳しくは社務所に戻ってお話します」
三人は御神体のシェンシャンへ向き直ると、作法に則って礼をし、灯籠の火を消してから本殿を後にした。
広間につくと、ヤエは冷たい井戸水で絞った手拭いをコトリに手渡す。先程禊をしたばかりにも関わらず、既に汗ばんでいたコトリは、喜んでそれを受け取った。次に出されたのは、冷たい茶と大豆餅、そして貴重な甘葛煎。口にすると、少しずつ体に力が取り戻されていくのが感じられる。
ようやく人心地がついたところで、コトリは二人に神との対面について語り始めた。
一通り聞き終えたヤエとスバルは、何とも言えないのか、互いに顔を見合わせる。
「これは、姫様だからこそ起こすことのできた奇跡なのでしょうね」
「まさか、罰として神気を見ることのできる目に変えられてしまうとは。それで、神のお怒りはもう鎮まったのだろうか?」
大神官であるスバルとしては、やはり確認しておきたい事なのだろう。コトリは、気さくなお喋りをしていた音の神を思い出していた。
「えぇ、もうご機嫌も悪くないと思われます。特訓では初めこそ激しく檄を飛ばしてらっしゃいましたが、途中からは私の演奏を気に入ってくださって、正式に縁を結ぶという話になり……」
ここでコトリは一瞬言い淀んだが、諦めたように手元のシェンシャンに視線を落とした。
「このシェンシャンに音の神も降りてくださることになりました」
「なんと!」
スバルは神具師ではないものの、神具であるシェンシャンは神が降りているものだと知っている。通常それは、神具師が技を駆使して祝詞を書き連ね、初めて成せることなのだ。人の手を加えずに、神が勝手に依り代を選ぶなど、滅多と無いことである。
「おそらく、これには理由がありまして」
これは、音の神の推測だ。
コトリはシェンシャンの腕がかなり良い。なのに、思うように音を制御できていなかったのは、シェンシャンに恋の神が降りていたからかもしれない、と言うのだ。
楽器である以上、音の神、もしくは芸の神が降ろされるのが当たり前なのだが、コトリがカケルから借りたものはそうではなかった。恋の神は歌や音とも相性が悪くない故、シェンシャンを鳴らすことはできたが、やはり本家本元には劣る。聞いたコトリは、自分の才能の無さだけが問題ではなかったことを知って、かなり安心した。
「では、今は音の神と恋の神のニ柱がそこにおわすと?」
「はい。恋の神は、自分に音の力が足りないことを知りながら、依り代に居座り続けていたことを侘びてらしました。ですから、罪滅ぼしとして、遠からずルリ神と会わせてくださるそうです」
これを聞いたヤエは、もう卒倒寸前だ。既にニ柱と対面しただけでも常軌を逸しているのに、さらにルリ神の名が出てしまった。スバルは、もう何を聞いても驚かないと思いつつ、質問する。
「それは、また本堂でお会いされるのですか?」
「いえ、どこでも良いようです。神々が、通信係をしてくださるそうで」
神が、コトリのために小間使いのようなことをするとは。スバルは無意識にこめかみを指で押さえていた。
「もしかしてコトリ様、古の誓約を交わされたのですか」
「……名付けは、させていただきました」
音の神、恋の神は、所謂一般的な神で、コトリの持つシェンシャンでなくとも、どこにでもいる。だが、個人的な縁を結ぶとなると、その神固有の名が必要となってしまうのだ。
「音の神はウズメ様、恋の神はククリ様となりました」
古来より人は、神へ名付けをすることで、よりその存在を身近に感じ、崇拝の心を強く育んできた。今後はコトリが名を呼ぶだけで、神が彼女の前に姿を現すことができるようになる。もちろん、類まれなる高貴な存在なので、無闇やたらと呼び出すことはできないが、コトリの強い味方となるだろう。
「ルリ神とお会いするのは菖蒲殿でもいいのですが、慣れぬ場所でまた意識を失くしてもいけませんし、またこの広間を使わせてもらえませんでしょうか。ヤエには付添を」
ヤエは、任せてくれとばかりに笑顔で応えた。一方、スバルの表情は冴えないままである。
「それは構わない。だが一つ気にかかることが」
「何でしょうか」
「今、社の御神体には神がいらっしゃらないのだろうか」
コトリとスバルは、一瞬無表情で顔を見合わせた。妙な間があく。廊下の風鈴が揺れて、一際高い音が広がっていった。
コトリは天井近くの空間に目をやる。
「ご心配には及びません。音の神が、ご自身の眷属を御神体に侍らせていると、おっしゃっておいでです」
「あたかも、今聞いたような言い方だね」
「……お察しの通りです」
コトリは、神気を見えるようになってから、神の残像も目視できるようになってしまったのだ。神は気が向けばコトリにだけ見えるようにして、側に来ることができるらしい。しかも、声まで聞こえるというオマケつき。
もはや、異常だ。
呆れ顔のスバルは、声を固くする。
「コトリ様、ヤエ、この事はくれぐれも他言しないように」
「サヨにも話してはいけませんか?」
「彼女ならば……良いだろう」
コトリは許可を貰えたことに礼を告げながら、ふと物思いにふける。
そういえば、なぜあのシェンシャンには恋の神などが降ろされていたのだろうか? ソウは腕利きの神具師だ。降ろす神を間違えるとは思えない。しかも、彼自身のシェンシャンなのだから。
となると、思い当たるのはただ一つ。
彼にも、想い人がいるのだろう。
「コトリ様、どうされました?」
ヤエの声ではっとする。顔に出ていたらしい。
どうして、ソウに好きな人がいるかもしれないというだけで、こんなにも傷ついてしまうのだろうか。
自分のために特別なシェンシャンを作り上げてくれた。確かにそれだけで、憎からず思ってしまうのは、シェンシャン奏者の性かもしれない。けれど、それだけでは説明できない何かを抱えて、コトリは一人葛藤していた。
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