第2話

美紗ちゃんは便秘気味らしく、しばらくトイレにこもるというので一人で教室に向かう。

やはり女子同士の会話は生々しいが、逆に開けっ広げでさっぱりしているようにも思える。

女子が、というより、美紗ちゃんの性格なのかも知れない。

あおいの教室は、昼間の俺と同じで三年二組だ。

もっとも、定時制は二クラスしかないから、大した偶然でもない。

ただ、朝とも放課後とも違う気配の廊下を歩いて自分の教室を覗き込むと、そこはまるで知らない場所のようで、とても自分の通い慣れた教室とは思えなかった。

何せ制服は少数派だし、派手な髪色の生徒も散見されるし、水商売のオネーサン?  と思えるような女子もいれば、いかにもオタクっぽい男子もいて、まさに混沌こんとんといった感じだ。

「おう、南野、おはよ」

時刻は夕方であるが、やはり「おはよう」というのが正しい挨拶のようだ。

「うん、おは──」

なっ!?

声をかけてきた生徒を一目見て、俺は絶句した。

「ん、どうした?」

「な、なんでもない! おはよ!」

俺は子羊のようにおびえながらも、愛想笑いを作って何とか取りつくろう。

ヤバいヤバい! こういう人もいるのか。

ヤンキーどころか、まんまヤクザじゃないか。

葵から聞いた情報にヤクザみたいな人の話は無かったぞ。

俺の見え方と葵の見え方は違うのかも知れないが、アイツは日々、こんな環境の中で勉学に励んでいたのか。

「今日は顔色いいな」

「え?」

ヤクザさんは、意外と人懐っこそうな笑顔を浮かべて言った。

「最近、顔色が良くなかったし、以前から休みがちだったろ? 単位も心配だったし、せっかく三年まで一緒にやってきたんだから、みんなで四年に上がって一緒に卒業しような」

定時制高校は、四年制だ。

授業は一日四時間だから、三年間ではカリキュラムを消化しきれない。

そして、その四年の間に入学時の生徒は半数に減る。

昼間に働いて夜に学校に通うということは、とても大変なことなんだと思う。

あ、そうか。

葵が言っていたクラスのリーダー的な人っていうのがこの人だ。

年齢は三十二歳で、確か、名前は安川。

みんなからはヤッさんと呼ばれ──って呼べるかっ!

まんまじゃねーか!

でも……見た目や境遇は様々でも、クラスメートなんだな。

経済的な事情、学力的な事情、年齢の違い、色んなものを抱えつつも、同じクラスで勉強する仲間なんだ。

「どうした? やっぱり体調が良くないのか?」

考え込んでいた俺に、ヤッさんが心配げな顔を向けた。

「ううん、絶好調!」

自然と、元気な声が出た。

自分で「キモっ!」とか思わないでもないけど、可愛く言えた気がする。

葵の可愛さは俺が一番よく知っている。

その可愛さを俺は演じればいいのだ。

「そうか。あまり無理すんなよ」

「ありがと!」

こんな感じの笑顔かな?

「い、いや、まあ……」

あれ、ちょっと可愛くしすぎただろうか。

ヤッさんは少し顔を赤らめる。

幾何いくばくかの罪悪感と、葵の可愛らしさが伝えられた喜びが混ざり合う。

それから、何だか上手く説明できないけれど、とにかく頑張ろうと思う気持ちが込み上げてきた。


葵の席は窓際の前から三番目で、俺が昼間に座っている席の斜め前だ。

その前に座る女子には見覚えがある。

あかねだ。

生まれつき身体が弱く、学校を休みがちだった葵は友人が少ない。

そんな中で、中学の時の同級生である茜は数少ない友人だ。

俺も同じクラスになったことはあるし、当時、家に来て葵と遊んでいたこともある。

だから好感を持っているし、葵をよく知ってるだけに騙すのも難しい相手ではあるが──

「アイタ!」

思わずその頭を叩いてしまった。

ちょっと押しが強いところがあっても、愛嬌があって小動物みたいに可愛らしかったのに、暫く見ない間に派手になりやがって。

葵と同じ制服姿とはいえ、やたらスカートは短いし、生意気に化粧なんかしてるし、髪色は茶色いし。

何だか無性に腹が立ったので、更に頭を叩く。

「痛い痛い、痛いって葵」

しかも叩かれているのに、何故か嬉しそうに笑ってるし。

「……おはよ」

俺はちょっと不機嫌に挨拶する。

「あれぇ? 今日の葵、いつもとなんか違うなぁ」

ギクッ!

ヤバイ。

感情に任せて茜を叩いてしまったが、普段の葵がこんなことするわけがない。

「いつもなら、優しく胸を揉んで挨拶してくれるのに……」

……は?

葵が胸を揉んで挨拶?

いやいやいや、葵がそんなことするわけ……いや、でも、女同士のスキンシップ的な何かがあるかも……。

俺は茜の胸元を見た。

別に大きくもないのに、生意気にもブラウスの第二ボタンまで開けている。

だが大きさなど二の次だ、ということに気付く。

大切なのは質量などではなく、ただただ甘美な柔らかさなのだ。

……触ったこと無いから知らんけど。

「ほらぁ、早くぅ」

くそ、小動物系だったくせに女になりやがって。

どうする、俺。

ここは、葵になりきるという俺の決意の程を試されているかもや知れん。

でも、どちらが正解か判らないなら、俺が取るべき答は決まっている。

俺は茜へと手を伸ばし──残念な、本当に残念なほど硬い頭をもう一度叩いた。

「そんなことするわけないでしょ」

俺は心の中で泣きながら言った。

茜はねたような顔をしてから、やっぱり何故か嬉しそうに笑った。


俺は趣味で女装しているわけじゃない。

ましてや、己の欲望を満たすためのものではない。

あくまで葵のためにしていることであり、女としての立場を悪用するようなことは、決してあってはならないと思う。

だから、葵の大切な友達である茜を俺は大切にしなければならないし、傷付けるようなことは許されない。

けれど──

「一時間目が終わったら、隣の空き教室ね」

いきなり呼び出し!?

含み笑いを浮かべながら言う茜は、絶対に何かを企んでいるに違いなく、俺の決意がどこまで通用するのか不安におちいる。

既に何か疑っているようである茜を、果たして俺は騙し通せるのだろうか。

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