白龍
依田鼓
白龍
二月下旬。風邪をひいた午後。私は街に出た。
駅前まで出てきたはいいものの、行き交う人の多さに圧倒されてベンチに座っているばかりであった。忙しく動く人の影を目の端で追う。
ロータリーは幸せの匂いがした。まだ若干熱い頭でおしるこの缶をすする人間などいない。私だけ時間が止まっているようだ。なんとも言葉にできない寂しさを感じて、ただうつむいたままであった。
その時、音がしたような気がした。どこかで聞いたことあるような、懐かしい感じがする音。遠ざかっていくような感覚を覚える。見上げると、その先には山があった。季節外れの紅葉がぽつんと色づいている。絵の具がはねたような、燃え尽きる寸前の炭が赤熱しているようなその一点に惹かれ、私はふらふらと立ち上がった。
森の中は思いのほか快適だった。足取りはおぼつかないが、人目を気にしなくていい。小さく鼻歌なんか歌ってみる。ぬるいカイロとまずいのど飴。歩くたび、ポッケにつっこんだ数枚の硬貨が音を立てる。それに合わせて、真新しいローファーのかかとを鳴らした。
目についた苔むす看板の前で立ち止まった。曲がれば山の奥へ進み、このまま行けば大回りをして家に帰る。まだ陽は真上を少し過ぎたところにあった。地図とともに描かれた案内を眺めていると、擦れた文字でこう書かれてあった。
「白絹村桑畑」
Yに下線の地図記号。私はその怪しげな雰囲気に導かれるように、古びた矢印の方向へと向かった。
見上げると高い杉が私の全周を覆っている。階段は跡形もなくなり、乾いた川底のような木々の間を歩いていた。足元には露わになった石ころや皮の削がれた木の枝が転がっている。とうにマフラーと耳当てはカバンにしまって、険しい道を楽しんでいた。
どれくらい進んだだろうか。私の頭へ陽光がこぼれるように落ちてきた。森林が途切れて小さい公園ほどの陽だまりが出来ている。奥には背の高い雑草を脇に生やした道がまっすぐ見え、光と影が隔たれている。私は振り返った。まだ迷うことは無い。空を見る。まだ高くて青い色をしている。行くしかない。行かなければならない。そう思うと何故かたまらなく高揚して、自然に口角が上がった。
光に目が慣れると、足元に何か落ちているのに気付いた。赤い布きれである。まじまじと見ると、その布が幾重にもなって縫い付けられているのが分かった。人形だとしたらかなり古風だ。風化して汚れている。しかし表面には光沢があり、恐る恐る触れてみるとなめらかであった。布の奥に固いものがある。何かしらの棒が通っているようだ。私は丁寧に元の場所へ置いた。
その時だった。
カン、カン、カン……。
音が聞こえる。聞きなれた甲高い音。遠ざかるようで近づいているような、不思議な感覚に襲われる。ああ、思い出した。この音だ。駅前で聞いたあの音は。
ふと前を見ると、砂利道の奥の方に人影が見える。少女だ。だが髪は驚くほど白い。鮮やかな赤の服がより際立って見える。あれは……着物だろうか。十二単のような幾重にもした着物。強烈な既視感。ハッとして、足元を見た。
直前に見たはずの人形がなくなっていた。再び前に目をやると、道の奥へと消えていく少女の白い髪だけが見えた。
音はずっと鳴り続けている。道の奥、耳の中で鳴っている。気付けば陽だまりの光が赤みを帯びてきて、私の影が真っ直ぐと立っている。時刻は夕暮れに差しかかっているらしい。明らかに時間の過ぎ方がおかしい。
カン、カン、カン……。
少女の心配のほうが勝った。意を決して一歩踏み出す。すると、より一層音が強くなったのを感じた。
道の傍に生えるススキは風が吹くとさらさら音を立てて、私の影をも邪魔せぬように道を開けた。しばらく行けば再び木々に囲まれた暗い道に出た。耳鳴りがする。少女の姿は見えない。速足になる。泥が跳ねるのも気にならなかった。さっきの彼女の表情が忘れられない。寂し気で愁いを帯びた瞳だった。一緒にいてあげたいと思った。私も、寝込んでばかりで寂しかったから。
森の切れ間があった。左には崖、右には深い森がある。道の上には木漏れ日がきらきらと広がる。あと少し……道の先に、少女がこちらを向いて立っているのが見えた。
やっと手が届きそうな距離まで近付いて、安堵に息を漏らしたその時、私の眼の前へ、黒と黄色の遮断かんが下りてきた。
目を疑った。私と少女の間には、いつの間にか踏切が敷かれていた。警報機はランプを点滅させて、けたたましい音を立てている。私がずっと聞いていたのはこの警報音であったのだ。
線路は右に見える森の奥から続いていて、どのくらい長いのかわからなかった。崖の先は途切れている。切れ間から落ちてくるオレンジの光は、ちょうど線路を照らしていた。レールは赤く錆びて、雑草や蔦が複雑に絡まっている。到底列車が走れるような状態ではなく、もうすでに完全に下りきった遮断かんも、ところどころ塗装がはがれていて劣化している。ランプの灯りは森の薄暗さの中でさえ小さく、苔に汚れた表面からわずかに漏れる程度である。
少女と目が合った。白い髪に赤い着物。こちらを見つめる大きな瞳孔の黒が、一際大きく見えた。
カン、カン、カン……。
電鐘の音は次第に早く、そして高く鳴るようになった。風が立ち始める。冷たい風である。森が騒ぐように音を立てた。線路上には特に強い風が吹いていて、その流れが目で見えるようであった。また少女と目を合わせた。笑っているが、その頬には風にさらわれる涙が見えた。
——来る。
瞬間、轟音とともに突風が吹き抜けた。思わず顔を覆う。しかし、指の間から見た光景に、思わず息を呑んだ。
目の前に白龍が飛び込んできたのだ。奔流のように森の奥から線路上を駆け抜けてくる。そして森の切れ間から赤熱する空へと飛び立っていく。ふと周囲を見渡すと、白雪が舞っていた。手に付着したそれは溶けることなく、光を受けてきらきらと輝いた。よく見ると、それは鱗粉であった。私はハッとして、白龍を見つめる。
鱗のように見えたそれは、一匹一匹の蚕であった。弱弱しい蚕は懸命に翅をばたつかせている。それが鱗の一枚一枚になって、この白龍を成しているのだ。
余りにも衝撃的で、圧倒的で……美しかった。空へと舞い上がった鱗粉は夕焼けに照らされ火の粉のように飛び散る。それを貫いて天へと昇る勇ましい龍は、うねり、燃え上がるように、消えていった……。
「君たちの夢が叶って、良かった」
私ではない誰かの声がして、少女の方を振り向く。するとそこには、線路も、警報機も、遮断かんも……少女もいなかった。私は一人、整備された遊歩道の真ん中で突っ立っているだけだった。
下山して、行きに見た看板の案内を確認しても、どこにもあの文字が書かれていない。何と書いてあったかも思い出せない。だが確かに、あの擦れた文字に興味を惹かれたのだ。いくら探しても見当たらないまま、森は夕闇に包まれた。
家に着くと、風邪をひいているのに何考えてるんだって両親にこっぴどく叱られた。それが何となくうれしくて、あの時感じた寂しさや愁いは消えた。
あれは森の中で見た白昼夢だったのか。後日、駅前のベンチから山を眺めても、紅葉はどこにも見えなかった。山に行っても、朽ちかけた階段や、木々の間を縫う道、陽だまり、ススキの砂利道……。それらは立派な遊歩道に成り代わっていて、息を切らすような道じゃなくなっていた。
——蚕はその身を翅で支えることが出来ない。
私は、蚕の夢を想わずにはいられない。繭の中で眠りについて夢を見るのだろう。 いつか自分が、空に羽ばたく姿を。それが叶うことのない願いだと、煮えたぎる釜の中で気付くのだ。それがどれだけ虚しいことか。
少女は蚕たちの夢を叶えたのだ。ひと時の夢の後、蚕たちは旅立った。もしかすると少女の涙は、別れの涙だったのかもしれない。
美しき旅立ちを私は忘れない。それが私にできる、唯一の弔いであるように思えた。
白龍 依田鼓 @tudumi197
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