あやとりのあとに
松木 悠
第1話
1996年初夏。
ねえ、オミソとって・・・
「おみそ?・・・」
「味噌よ」
なんだ、味噌か。しかし、そんな気の利いたものがここにあったかな? ミソ、みそ、味噌は、と。停止していた思考回路がゆっくりと回りだす。味噌など買ったこともない。ところで君は誰? スリープモードの脳味噌をぶしつけにかき回してきた声の主を探しているうち、夢だと気付く。
へんな夢だ・・・
毛布の奥から這い出たものぐさな手がセブンスターの臭いを探し回る。半透明の意識の端で、指先はしきりに空をつまむ。やがてベッドのまわりをぐるりと徘徊した手が、ふと考え込む。やけに空気が暖かい。意識と感覚が、地球の公転周期と半分くらいの時差でずれている。まさか二日酔いのせいでもあるまい。章平は毛布にくるめたねぼけまなこの顔を、ベッド脇のサイドテーブルの上に振り向けた。
そこに置いてあったはずの缶ビールの残骸が見当たらない。昨夜、なけなしの金で買った半ダースのビールである。腕をジャッキにしてベッドに張り付いた重い体をもたげる。部屋の隅々を見回す。が、どこにも転がっている様子はない。片付けた記憶もない。日ごろ、よほどかしこまった来客の予定でもない限り、ものを片付けるという習慣のない章平である。日用品はその都度、部屋の中から探し回って用を足している。
はて? いくらずぼらな男とはいえ、寝起きのあとさきの見分けはつく。時間の経過以外には、物理作用が生じるはずもない男やもめの部屋である。深夜、コンビニで買ってきた缶ビールと、封をきったばかりのタバコの箱が消えている。
冷凍庫よりも寒い空気が緩み、ゴミ箱よりも汚い部屋が整然としていれば、さすがのねぼけまなこにも、ただごとではあるまいと映る。これは夢の続きであろう、という局面打破に向けた自己防衛思考が働く。一旦、目を閉じ、朝のけだるさの淵に意識を横たえる。
酒に溺れたあとの虚ろな思考が首をもたげる。不快な気分が蘇りそうになるのを、この野郎、とひっぱたく。もう少し逃避行をしていたい。
同じ逃避行ならいじけているより、いっそ脳味噌がただれるくらいのハイな気分に溺れたい。念じれば輝くというほど、夢のコーディネートは容易ではない。が、どこからか、みそ汁と香水の混じった匂いが鼻腔をくすぐり始めた。そっとまぶたを開く。と、そこには願望をちりばめた世界が広がっていた。
あるはずのないテラスにレースのカーテンが舞って、まばゆいばかりのショーツとブラジャーと、トランクスが風と戯れている。窓際にはピアノがあって、五線譜の上ではオタマジャクシが子犬のワルツを踊っている。幸せだらけの朝の訪れである。
「あら、おめざめ?」
ダイニングからエプロン姿の若妻風情が顔を見せた。欲求不満の男の哀れな妄想が生んだ、ミス、オッパイとオシリと脚線美の、イイ女である。鼻の下に好色の文字を吊り下げた顔で、まずは、
「おはよう・・・」
と応えてみる。にっこり笑ったイイ女が、
「ねえ、めざめの最初のメニューは何がいい?」
栗金時と、善哉と、あんみつと、パフェを映した、とろけるような甘い眼差しが言い寄ってくる。
「うん?」
「抱擁、接吻、愛撫、それともセックス?」
途端に体の重力がなくなった。なんともおいしいメニューだ。舞い上がってしまいそうな気分で、思わず、
「全部・・・」
と、欲情にめざめたオトコの顔がそう応えた。
「あはは、元気ね」
どうやらこれは月並みの夢ではなさそうだ。この先、何が始まるのやら。章平の脳味噌に、わくわく顔の期待と欲望とロマンが膨らみ始めた。と、
「じゃあ、ご飯にしましょ」
いきなり肩すかしを食らった。そのまま押し倒して、身ぐるみはがしてしまってもいいが。それでは欲情丸出しの野獣になり下がる。せっかく訪れた薄幸の男の夢である。まずはなりゆきに任そうと思いとどまった。あわてて食らいつくことはない。彼女の手料理のメニューから、じっくり味わっても遅くはあるまい。
「さあ、起きて」
章平はまだ火照ったままのオトコの欲情もろとも、被っていた毛布を剥がされた。
「その前にタバコを一本くれないか?」
習慣で、一日の最初の運動はタバコに火をつける動作と決まっている。が、
「タバコは吸っちゃだめよ」
の一言であっさり習慣は葬り去られた。母親に叱られた子供にように、はい、と回れ右をした口が聞きわけよく答えてしまっていた。
箸を口に運ぶたび、どう? と彼女が章平の顔色を覗う。いつもなら朝食は割愛してタバコ一本で済ませるとこだ。摂っても給料日後しばらくの間だけで、それもコーヒー一杯とトースト一枚がせいぜいである。
目の前には、肉と魚と卵と海苔と野菜をふんだんに使った、和え物やら煮付けやらスープやらが、テーブル狭しと並んでいる。既に口も喉も腸も満杯である。
「全部、私がこさえたのよ」
初めのうちは、旨いうまい、と世辞半分、卑しさ半分、嬉しさ一杯で食っていたが。いくら食に飢えた人間でも、料理狂いの女の献立をいっぺんに食わされれば、二度と贅沢はいうまいと神に誓いたくなってくる。
「はい、アーンして」
うんざりした口に、彼女の箸が容赦なく媚を運んでくる。殺す気か? 嘔吐をもよおし、必死で口を閉じる。おいしくないの? と脅迫されながら、
「これ以上食べたら、もうデザートを抱けない・・・」
デザート? 彼女の目がひるむすきに、かろうじて箸をかわす。
「ごめんなさい、デザートまで作るひまなかったのよ」
と申し訳なさそうにいうのを、このコだ、と彼女の鼻の頭を突ついて応えてやる。アハ、と照れた彼女が、
「そうだわ、もう出かける時間ネ。したくしなきゃ遅れちゃうわ」
と逆に話をそらし、餌を運んでいた箸を置く。つと立ち上がって、部屋の奥へ小走りに消えた。はて、どこへ出かけるのか。前頭十三枚目くらいの貫禄になっている腹をさすりながら、覗き込む。
「出かけるって、どこへ?」
「会社・・・」
いいながら、どこからかハンガーに掛かった男物のスーツを提げてきた。色や柄や形からして、いかにも高級紳士服といった品の好いスーツである。章平のものではない。彼のがらんどうの洋服ダンスには、面談と、お見合いと、冠婚葬祭くらいにしか着ない、合着の安物のスーツが一着吊る下がっているだけである。どこかで夢の勝手が違ってきている。
「会社って、誰の?」
「あなたに決まってるでしょう」
今日は非番の日だ。悩ましきかな若妻風情のオンナ、どうやら死ぬほど餌を食らわせたあとは、勤労奉仕をさせようというつもりらしい。オトコの願望が溶けないうちに、早いとこ抱いてしまおう。
「ちょっと君、ここへ座れ」
章平はイスに変身して膝を叩いてみせた。
「ヤダ、何をいばっているのよ」
「今日は休みの日だし、僕はゆっくり過ごしたいんだ。君と・・・」
「こまるわ、会社に行ってくれなきゃ」
「なんで?」
「だって、私、ビジネスマンの奥さんだもん」
そんな上品な職業には就いていない。フリーターで、今は倉庫の配送係をやっている。これ以上、若妻のママゴト遊びにはつきあっていられない。
「かってにビジネスマンにするな!」
腹立たしげにいうと、
「ちょっと、あなた、ナマイキよ!」
突然、角を出して章平を威嚇した。こともあろうに夢のオーナーに噛みつくとは、なんとわきまえの無い女だ。せっかくのシルク色の気分も、たちまちボロ切れになった。
「生意気なのは君のほうだ!」
とやり返す。が、
「私の願望が作った男なのに、へんね・・・」
と彼女が首を傾げた。願望? ちょっと待った。それは逆だぞ。
「君を作ったのは僕の方じゃないか」
「何を寝ぼけたこといってるのよ。あなたは私のナイトとして、私の中で産まれてきたんじゃないの」
「ナイトだかナイターだか知らないが、僕はボクだし、僕を産んだのは君なんかじゃない、生身の人間で、僕のお袋だ。君こそとんだ見当違いで産まれた、僕のドリームドールじゃないか」
「ドリームドール? なあに、それ」
「オトコの願望が産んだ、つまり・・・」
「あ、それって、ダッチワイフとかいうイヤラシイ人形のこと?」
「そうともいう・・・」
「私はあなたの慰みものってわけ? 冗談じゃないわ、ひとをかってにへんな人形にしないでよ。もう、こんなでたらめな夢、早く覚めてくれないかしら」
「それはこっちの台詞だ! まったくとんでもない悪夢だ」
互いに存在を主張して譲り合わない「僕」と「私」が対峙する。夢に立腹してみたところで、どうなるというものでもないが。相手が女とあってはあとには引けない。章平は愚かにも、男の意地を張ってみせる。
「もし、これが君の夢というなら、その証拠を見せてみろ!」
「証拠? それはあなたが望んでも、私の意志のバリアで私を抱けないってことよ。あなたこそ、その証拠を見せたらどうなの?」
「ああ、見せてやる。いいか、見てろ!」
章平は両手を羽ばたいた。
「なにやってるの?」
「飛べるはずなんだ」
「あなた精神年齢低くない? 私はとっくに魔女は卒業したわよ」
蔑んだ目が章平を見下している。確かに子供じみた真似だった。自由に空を泳ぎ回れたのは小学生までの事だ。どうも使う魔法のアイテムを間違えたらしい。
はたと考え直してみて、改めて夢だと証明できるものを夢の中で示してみせるのは容易なことではないと悟った。ようやく夢だとわかったときには、なんだ、の一言で眠りから覚めてしまう、取るに足らないことなのにである。
「かわいそうだけど、私のミッキーマウスの目覚まし時計が、七時半にはあなたを破壊する運命よ」
いきなり切り札らしきアイテムを取り出して脅してきた。が、ミッキーマウスとは笑わせてくれる。そんな子供だましの武器で夢を奪えるとでも思っているのか。往生際の悪い女だ。ならば、とばかりに対抗馬を仕立てる。
「ははは、君こそ八時のおはようコールで僕の中から抹消されるんだ」
「それ、モーニングコールのこと?」
「そう、さわやか嬢のウェイクアップキッスっていう、第三電々のサービスだ」
「私が目覚まし時計で、あなたが電話・・・」
どこ? と彼女の目が部屋の中を見回した。つられて章平も辺りを見回す。そういえば、時計や電話はどこだ? 部屋が整然とし過ぎていていて、どこかわからない。彼女も戸惑っている様子だ。
「あのブラとショーツは私・・・」
「そっちのトランクスとソックスは僕・・・」
「あそこのショパンとピアノは私のよ・・・」
「こっちのラジカセとゲームボーイは僕のだ・・・」
ひとわたり部屋を見回しながら、所有物を主張し合う。が、肝心の必須アイテムが見当たらない。これでは敵を駆逐することも、悪夢から脱することもできない。状況は敵も同じらしい。困惑と狼狽の目が互いを探り合う。と、神妙な声で彼女が尋ねてきた。
「ねえ・・・」
「うん?」
「あなた、私のこと知ってる? どこかで会った事があるとか、見かけたとか、誰かに似てるとか・・・」
「全然、まったく二十八年間、見ず知らずの顔だ」
「私も二十年間、一度も見たことないわよ。あなたみたいな人・・・」
敵対心が薄れた表情でいう。彼女も懐疑にさいなまれ始めた様子である。
「あなたの名前なんていうの?」
「鈴木章平だ・・・君は?」
「そう、ショウヘイさん、私、児島ユミコ。弓の子って書くの」
「弓子か・・・」
別段、夢にうなされるほどの情愛の深い名前でもない。改めて互いの陥った不可解な事態に気づく。半信半疑のまま、二人は見ず知らずの溝を埋めようと接近し始めていた。
「冷静に考えてみると、この世界、へんだと思わない?」
「かわった夢だな・・・」
「私の願望が産んだ奔放な夢に見えたけど・・・もうひとり、下品な別人もいるようね」
章平が鼻の頭を指してそぶりで尋ねると、彼女の首がこっくりとうなずく。
「はっきりいって、超エッチ級ね」
勝手に人の夢に入り込んできて、いや、連れ込まれたのかは定かではないが、口さがない女だと、あきれる。しかし、今は夢かうつつかわからないこの状況の方を冷静に観察してみなければならないと、堪える。
目の前のうら若い弓子という女も本心は同じであろう。
「こうなったら、どういうことが起ったのか、協力して確かめてみましょ?」
章平の存在を、ひとまずは尊重しておこうという改めた口調で弓子という女が言った。
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