6-4 わからないふり

 志紋くんが踊る曲は好きに決めていいと言ってくれたから、私は前から一人で踊れないかと考えていた曲を希望して、一緒に踊ることになった。

 撮影場所も、志紋くんが東京のスタジオを借りてくれた。明るい曲調に合わせて、スタジオの背景もカラフルでポップになっている。


「へー。踊ってみたってこういうとこで撮影してたんだ。知らんかった」


 隅っこに座り込んでいるヒロが物珍しそうにきょろきょろと周りを見回している。

 暇だからと着いてきた彼だけれど、本当は心配してくれてるんだと、思う。

 それはなんというか、嬉しいようなお節介なような。


「こういうとこでコスプレの撮影する人もいるよな」


 準備体操のつもりか腕をぐるんぐるんと回しながら、志紋くんがヒロに向かって言った。

 私もなんとなく立った状態で足首をぐるぐると回してみる。

 正直、私は彼らの会話に交ざる余裕がない。

 思っていたよりも緊張していた。不安もある。

 前に踊れなくなったときのような吐き気はない。だけどいつも通りとはいえない状態。

 心臓がどきどきしているというか。喉もからからに渇いている。

 私は持参していたペットボトルの水を少し口に含んだ。

 試しに最初のイントロの部分の振りをゆっくとさらってみると、緊張しているわりにはしっかりと腕も足も、体が動く。

 やっぱり大丈夫かもしれない。


「アッキ、ちょこっと通しで練習してから撮ろう」

「うん」


 何度か練習で二人で合わせてから、本番だ。

 ヒロがカメラの録音ボタンを押す役も音楽を流す役もやってくれる。

 たぶん、大丈夫。やれる。あと、ちゃんと笑顔で踊る。

 そう繰り返し呟きながら、足元を見つめる。今日の曲の雰囲気に合わせて選んだ鮮やかな赤色のスニーカーが目に飛び込んできて痛い気がした。


「じゃあ、音出すから」

「はーい」

「……はい」


 志紋くんと背中合わせになって音が鳴り出すのを待っていると、まもなく明るい音楽が流れ始めた。

 動き出すまでのカウントを取って、大きく息を吸う。

 ここだ。

 タイミングをしっかり志紋くんと合わせて半回転、笑顔を貼り付けて前を向く。

 三脚に固定されたカメラが目に入り、一瞬どきっと心臓が止まる。

 けれど動揺している暇もなく、アップテンポな曲はどんどん進み、私は練習通りに振りを踊る。

 大丈夫、やれてる、大丈夫。

 踊れている。問題ない。隣にいる志紋くんとの息もばっちり合っている。

 けれど、心の中は平常ではない。正面を向く度にカメラのレンズが自分の目に写り、心臓が跳ね上がる。

 もっと無心になって踊りたいのに。楽しく踊ればいいだけなのに。

 ターンすると、ステップを踏むと、見てしまう丸くて無機質なレンズ。

 怖い。

 今、私があそこに写っていて、録画されていて、この数分が終わるとしっかり私の姿が、顔が表情が、全部記録されていて。

 そして公開される。見知らぬ誰かに。私に興味がない人にも、私が大嫌いな人にも平等に。

 笑顔? 無理。こんなの笑えない。

でも、それでも無理やり笑え。楽しそうなふりをしろ。

 最初は平気だったのに体が重い。今どこを踊っているんだっけ。もうサビは終わったっけ。

 でも踊らなきゃ。曲はどんどん進むから止まれない。私の赤いスニーカーが、きゅっきゅと音を立てて回り続ける。

 踊らなきゃ、最後まで。曲が終わるまで踊らなきゃ踊らなきゃ踊らなきゃ……


「もうやめよ」


 突如、ヒロのような声とともに、音楽がブチッと切れた。

 スタジオの中がしんと静寂に包まれた。

 私も志紋くんも状況が把握できずに固まってしまっている。

 ぽかんと立ちすくんでいると、端にいたヒロがすたすたとカメラに近づき、乱暴に録画停止ボタンを押した。


「ひ……ろ……?」


 私のかすれた声を聞いてか、ヒロはゆっくりと私を見た。

 無表情だった。怒っているようにも泣きそうにも見える。何を考えているのかはわからないけれど、機嫌が良くないのだけはわかった。


「どうしたんだよ、志大」


 志紋くんが困惑を声に滲ませてヒロを見た。


「だって亜紀羅、おかくなってたから」


 名前を呼ばれて肩が跳ね上がる。

 確かにおかしかったかもしれない。カメラが怖くて仕方がなくて、わけがわからなくなっていた。でも、それだけだ。


「ヒロ、私ちゃんと踊れてたよ。気持ち悪くなったりとかなくて体調は大丈夫だったし、振りだって間違えてなかったでしょ。志紋くんとも合ってたし音ハメも上手くいってたし、笑って踊れてたよね? だからおかしくなかったしちゃんと踊れてたし、だから、だから……」

「踊れてたかって訊かれたら踊れてたよ。振り付け間違えてる感じもなかったし、兄貴と動きも合ってたし、笑顔で踊ってたよ。でも変だった」

「何が? 変って何? 意味わかんない」

「わかんない? 俺が言わなきゃ駄目? わかってるだろ」


 いらだたしげに、私を責めるように、ヒロの口調が鋭く尖る。

 普段は無口で優しいヒロのあまり見ない態度に一瞬怯むと、彼は後悔したように顔を歪めた。

 それでも、そこで話をやめることなく独り言のように小さく口を開いた。


「操り人形が無理やり踊らされてるみたいで、見てられなかった」


 そんなこと、そんなこと……。

 反論しようとして息を吸いこんだけれど、言葉が出てこない。

 ただ大きく息を吸って吐いて、そんなことを繰り返しているだけの私と、言うことを言ってしまってもう私とは目を合わせようとしないヒロ。

 私たちのあいだの奇妙な沈黙を、志紋くんがおずおずと破った。


「アッキ……体調って? 調子悪かったの? 確かにちょっとしんどそうだったけど……」


 志紋くんが私とヒロを交互にきょろきょろと見やる。

 私はぶんぶんと首を横に振る。


「違うよ、志紋くん。大丈夫。体調は大丈夫だったけど、うん。確かに振り付け激しいししんどかった、でもあのまま最後まで録画できてたら一発で……」

「亜紀羅は受験じゃなくて、踊れなくなったから踊るのやめたんだよ、踊ると体調が悪くなるから」


 ヒロが私の話を遮って志紋くんに話しかける。

 変な汗がこめかみをたらりと流れる感覚がした。


「ヒロ、いいよ。志紋くんには話さなくていい。志紋くん、私本当に受験勉強で」

「兄貴は自分のことばっか考えてたから気づいてないだろうけど、亜紀羅は兄貴と一緒に踊るのがしんどくなってやめたんだよ。全部兄貴のせいとは言わないけど、責任がないわけじゃない」


 ヒロの口からどんどん、私が志紋くんに言わなかったことがあふれ出てくる。

 遮って止めるタイミングも気力も失い、私はただヒロを見つめて立ち尽くす。

 頭の中の半分はフリーズして考えることをやめていた。


「なんで、亜紀羅がいっぱい悪口書き込まれてるの知ってても何もしなかったんだよ。なんでこいつがしんどいときに、一緒に踊ってる兄貴じゃなくて俺に相談するような状況にさせんの。みんながみんな兄貴みたいに悪いものは見なかったふりして良いことだけ考えてやってくとか無理だから。それが亜紀羅にもできるって思った? そんなの亜紀羅のこと何もわかってないから。わかってないのにコンビ復活とか誘うんじゃねえよ」


 あくまでも冷静に、声を荒げることなく静かにヒロは志紋くんに向かってそう言った。静かだけれどどこか、冷たいものが地を這うような、聞いたことのない声音で。

 志紋くんは何も言わなかった。どんな顔をしていたのかはわからない。ヒロから目を離すことができなかったから。迫力が恐ろしくて。

 ぼんやりしているうちにヒロは私の手を引き、志紋くんを残してスタジオの外に私を引っ張り出した。


 よくわからないまま電車に乗せられ、止まっていた思考がゆっくりと動き出した頃に、家に帰る方向の電車に乗っていることにやっと気がついた。

 フリーズしていた脳が戻ってきたとはいえ、何をどうすればいいのかわからない。

 置いてきた志紋くんに連絡したほうがいいのか、するにしても先に帰ったことを謝るのか、隠していた踊らなくなった理由について打ち明ければいいのか、今日駄目だった撮影をもう一度させてくれとでも頼めばいいのか。

 隣の座席で眠そうに俯いているヒロに対して、私の様子に気づいてくれたことを感謝すればいいのか、勝手に着いてきて勝手に私の事情を志紋くんにバラしたことを怒ればいいのか。

 それとも、さっきからずっと繋がれたままの右手を振りほどけばいいのか。

 大きな手に包み込まれた私の手をそっと引き抜こうとすると、ヒロは半分閉じていた目を私に向けた。

 目が合い、手を離すのを躊躇してしまってそのまま固まる。

 その眠そうな目にかかる長いまつげが窓からの陽光で淡く光のを見ていると、手を握り直された。


「……なんでさ」

「え?」

「なんで兄貴に言わなかった? 踊るのやめた理由。中学のときからずっと隠してたし、今回も今日まで黙ってたじゃん。なんで?」

「……」

「だんまりですか」


 やれやれといったふうに、ヒロが私から目を離して背もたれに頭を預けた。

 言葉が出てこなくて、色んなことが頭の中を渦巻いていた。時間をかけてやっと、私は口を開く。


「……志紋くんに言ったって、わかってもらえないと思ってたから」


 ネットに何を書かれても、そんなの気にするなとか、嫌なこと乗り越えてまた踊ろうとか、前向きな言葉をかけられて余計にしんどくなると思ったから。ヒロみたいに、黙って聞いてくれるだけでいいのに。


「あとは……なんだろう。志紋くんに良く見られたかったから、かな。そんなことで落ち込んでんのかよとか、そんな理由でやめるのかって……がっかりされたくなかったし、かっこ悪いとこ見せるの嫌だった、かも」


 自分で自分の気持ちに自信がなくて、ふわふわと小声で不安定な喋り方をしてしまう。それを黙って聞いていたヒロは、少し迷ったように口を開いた。


「なんでがっかりされたくなかった? 兄貴のこと……好きだから? 好かれたかったから?」

「え、いや、うーん……恋してたかって?」


 質問の意図をはかりかねてヒロを見ると、えらく真面目な表情で私を見つめていたからどきっとしてしまう。


「……わかんない」

「わかんねえのかよ」


 責めるという感じでもなく、まったくもう、と呆れるような笑い。つられて私も少し笑ってしまう。


「好きだったのかな。中学生のときとか、花林糖さんのことちょっと嫌いだったかも。志紋くんのこと取られた気がしてさ」

「じゃあ、今は?」

「今は、違う。志紋くんのこと思い出すと、嫌だったこともついてくるけど、志紋くんのことは嫌いじゃないよ。でもお兄ちゃんみたいな感じで好きなだけ。……ううん。やっぱりあの頃も恋じゃなくてお兄ちゃんだった。でも、今よりも独占欲があったかも。志紋くんに一番かわいがられてるのは、私だーって」


 志紋くんと付き合いたいとか彼女になりたいとかを思っていたわけじゃないけれど、彼の特別になりたいとは思っていたような気がする。だから、必死に追いつこうと踊っていたのかもしれない。


「……俺は? 好き?」

「え?」


 ますます質問の意図がわからない。というか、あんまりわかりたくないというか。

 ヒロはもう私を見ていない。不自然なくらいそっぽを向いている。

 好きっていつのことだ。昔か、今か。いや、今だよね?


「えーと、えー……」


 急に、まだ繋いだままの手が熱くなってくる。

 困って言いよどんでいると、その手をぱっと離された。


「変なこと訊いた。答えなくていいよ、お前は俺もハルも芙雪も、みんな好きだもんな。わかってる」

「……今の、そういう好きって話じゃないんでしょ」

「……」


 ヒロがだんまりを決め込んでしまったから、もうこれ以上何も言えない。

 思い浮かぶのは、志紋くんと花林糖さん。

 今、ヒロに彼女ができたらヒロのファンは何を思うだろうか。

 しかもその彼女がさっちゃんだったら、どう思うだろうか。ハルちゃんねるの視聴者たちの反応は。良くない想像だけが膨らんでいく。

 自分の気持ちがどうとかよりも、そんなことばかりが気になって。けれどたぶん、そんな私もヒロには見透かされているのだろう。

 だから、途中で話をやめてしまったのだろう。

 家の最寄り駅まであとどれくらいだろうか、まだしばらくかかりそう。ヒロも眠そうだけど、私もちょっと眠い。

 志紋くんのことも、ヒロのことも今後のことも考えるのをやめて、目を閉じた。

 心地よいまどろみが私を包む。

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