冬の薔薇は死んだ

真波潜

冬の薔薇は死んだ

 その日は珍しく夕方頃から雪がパラついていた。


 傘もレインコートも持ってはいなかったが、朝から冷え込んでいたのでマフラーと手袋はある。雪は家に入る時に払えばいいと思って、定時に会社を出た。


 長い髪にも、コートの起毛にも、歩いているうちに雪が積もる。時々手袋をした手で髪に積もった雪を払いながら駅に向かった。


 ホームで軽くコートの雪も払ったのだが、電車の中は暖かく、窓に映る自分の肩は少し濡れていた。


 最寄駅に着くと雪はぼたん雪になっていて、道も白く染まっている。いくつかの足跡がてんでバラバラの方角に向かって伸びていた。


 さらさらとした雪なのでショートブーツでは滑りはしないが、私の足跡も真新しい道に残っていく。


 実家住まいで、社会人になってようやく地元から電車を使う様にはなったが、駅と家の距離があるので天気が悪い日は憂鬱だった。これは小学生の頃から変わりはしないのだけど。


 昔から大きな庭を持つ、佐藤さん、の家がある。小学生から大人まで、よく庭を通ってショートカットさせてもらっていた。地元の子はみんなそうだ。小学校に行く道と、駅へ向かう道は途中までは同じで、社会人になっても私は時々佐藤さんの庭を通っていた。


 佐藤さんの庭を通らないと200メートルは長く歩く事になる。本当に大きな庭の家なのだ。


 今日は思ったより雪が深くて、私は佐藤さんの庭を通ろうと思った。佐藤さんの庭は昔から付き合いがある人なら誰でも通れたし、それは佐藤さんが許してくれているのを知らない人から見たら、随分と来客の多い家だと思う事だろう。


 家の正門を開けてお邪魔しますと呟き中に入る。庭はいつ見ても綺麗に整えられていて、雪が積もっても風情がある。


 そんな庭に足跡を残すのも少し申し訳ないが、私は足早に庭を裏門に向かって進んだ。


 ざくざくと雪を踏む音が、シンとした庭に響く。響いた端から雪に音が吸われる。


 ちょうど外の街灯に照らされた所に、薔薇が一輪花をつけていた。


 街灯の下でもわかる、深い赤の、滑らかな花弁が大きく開いた美しい薔薇だった。


 それに真っ白い雪がしんしんと積もっている。そのコントラストに、何故か目が離せなくて足を止めた。雪は降り続けている。


「狂い咲きなのよ」


 縁側の窓を開けて、佐藤さんが声を掛けてきた。いつまでも立っていたからだろう。寒いだろうに申し訳ないことをした。


「狂い咲きですか」


「そう。一輪だけね。よかったら持って帰る?」


 居間のオレンジ染みた家の明かりが逆光で、少しだけテレビの音が漏れ聞こえてくる。佐藤さんの前には雪の積もった庭に出るサンダルがあったが、それを履かせるのは躊躇われた。


 それに、この雪が積もった薔薇が綺麗だと思ったので、私は首を横に振った。


 この深い赤に、真っ白い雪。触ってはいけないような気にすらなる、狂い咲きの薔薇。


「そう、残念ね。また明日」


「はい、ありがとうございます。また明日」


 スマホの天気予報によれば、雪は明日の朝も降る予報だ。またここを通るだろう。


 窓を閉めた佐藤さんに一礼して、私はもう一度薔薇を見て、佐藤さんの庭を後にして帰宅した。頭の上にはたくさんの雪が積もっていた。


 次の日は天気予報が外れて快晴だった。気温が低いので雪は残っている。今日はぬかるみで滑らないように気を付けて行かなければ。


 私は佐藤さんの庭を通るつもりで家を出た。それでも、いつもより三分早く出た。あの薔薇が見たかったのだ。


 裏門から入り、昨日薔薇を見たところにきて、気付く。あの薔薇がない。誰かに貰われていったのだろうか。


 夜と朝だから見え方が違うのかと思って少しきょろきょろと探したら、あった。


 見る影もなく、黒くしぼんだ花弁は、雪を支えきれずに所々落ちている。しわくちゃになった花弁、シミの様な黒色に変色した薔薇の姿は、私に死を連想させた。


「あぁ、やっぱりだめだったねぇ」


 佐藤さんが、今日は庭に降りてきた。サンダルの雪を払って、ハサミを片手に。


「夏に咲くからね、本当は冬になんて咲くもんじゃないんだけど。昨日愛でてもらえてこの子もよかったんじゃないの」


 そう言いながら、佐藤さんは嗄れた薔薇の花の首を落とした。


 半分溶けた雪と土の混ざった泥に落ちた姿は、明確に死だった。


 昨日私が持って帰って、切り花にして暖かい部屋に置いていたら、もうちょっと咲いていられただろうか。


 だけど、あの薔薇は雪が積もって存在が完成していた。そう思ったから持って帰らなかった。部屋の中には、雪は積もらない。


「ほら、遅刻するよ。いってらっしゃい」


「あ、いってきます」


 急ぎ足でぬかるんだ道を駅まで歩きながら、私は考える。


 あの冬の薔薇は私が殺したのだろうか?


 電車に乗る頃、たぶん違う、と思った。首を落とした佐藤さんが殺したわけでもない。


 冬の薔薇は自ら死んだのだ。その美しさを私に見せつけ、魅了して、私を振って、死んだ。


 結果を知っていた佐藤さんにも、ましてや持ち帰るのを拒んだ私にも、あの薔薇は殺されたわけじゃない。


 あれはあの時あの瞬間に己が咲く美しさを知っていた。


 そして、冬の薔薇は死んだ。

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