双星

雪猫なえ

第1話:日常と前兆

 あぁ、今日も世界は退屈じゃ。


 世界は広い、広くて未知じゃ。


 それなのに、わらわの世界は退屈なのだ。


 では、どうするか。


 父上ならば、どうしたであろう。


 かねてから大うつけと呼ばれた彼ならば、この退屈の中どう足掻あがいただろう。


 ***


 ここは日出ひいずる国。


「イヒメ!朝食前の散歩なんかいい加減やめなさい!」


 母親の怒声が聞こえる。赤く長いおさげを豪快に揺らす彼女は、名を「イヒメ」という。彼女は、この名前をそこまで気に入っていない。もっとかっこいい名前にしてほしかったというのが本音である。


「イヒメ、返事は!」


「承知じゃ承知じゃ」


 帰るなり玄関先で怒鳴られ無機質になる声を誤魔化すこともなくそう返す。これもまたいつものことだった。反抗期の娘の態度は、親にとっては理解に苦しむ要因の一つだ。


「まったく、可愛くない子だね!こんなんじゃ将来は父親あの人みたいになるよ」


 母親が立腹のときは、イヒメの方が口を紡ぐことが多かった。それが最良かつ説教が最短で終わる道だと、十年という短い人生で彼女は学んだ。学んだのだが、


(父親のようになってはいけないのは何故なにゆえか?)


 この疑問がいつもついて回ってくるのでは、とても進歩したとは言えないのかもしれない。

 ルーティンをなぞるような母親の言葉に飽きてよそ見をした。


「こらイヒメ、聞いてるのかい!」


「聞いてはおる」


「またそんな屁理屈ばかり言っ……イヒメ!」


「毎日繰り返される定型文を毎日忘れるほど阿呆あほうではない」


 聞き入れる様子もなく、イヒメは帰路を引き返す。母親が着物を掴んで止めるよりも早くイヒメは自宅の玄関からきびすを返した。袖をはじめに畳むように心がける、これもまたイヒメが学んだコツの一つだった。


「イヒメ!」


 後ろでまた母親の叫び声が聞こえた。帰ってから更に叱られることは重々承知だったが、なんとなく今日は説教が耐えられなかった。

 後から思えば、それこそが変化の前兆だったのかもしれない。


「イヒメ!」


「んっ?」


 母親の声よりも透き通った高い声。


「またそんな所に登って、危ないだろう」


「シアキ!」


「え、えぇ!イヒメ何をっ、わぁっ!」


 イヒメは青年の胸に落ちた。藍の着物が少しシワを寄せ、彼の左の眼帯の家紋が歪んだ。


「いっ……、何してるんだよ!危ないだろう!」


腹部でイヒメを受け止めて、シアキは訴えた。


「シアキよ、それはさきほども聞いた。違うことを言わぬか」


 イヒメに訴えは伝わっていないようだったが。


「えぇー……」


 シアキは、イヒメの幼馴染みだった。昔からこんな調子で、臆病で気弱ながらイヒメのことを制止する役回りなのだが、そのことをどう思っているのかはシアキのみぞ知る。


「イヒメ、なんだい今の音は!さてはあんた、ついに屋根から落っこちたね!ほら見なさい、だからあれ程……」


 台所から顔を覗かせた母親が、シアキを見た途端に顔色を変えた。


「あんたっ……!」


 その様子を見て、イヒメは思案を巡らせた。


(面倒なことになったようじゃが、さてどうするか)


「あ、あ……あの、その、これは……!」


 シアキはただただ、うろたえたように小さく弱々しい声を吐き続けていた。


 (此奴こやつは本当にひ弱じゃのう。良い奴であるということは認めるが、それだけでは生きてゆけぬぞ。さて、それでは朝食前の運動といこうかの)


「え、イヒメ!?」


 イヒメは、シアキの腕をとって思いきり引き寄せる。と同時に一息に体勢を低くする。足に最大の負荷をかけて、イヒメは地面を蹴った。母親の声がすでに遠くから響いていた。


 駆けていく風景は嫌いではなかった。むしろ全てをさらって行ってくれるようで、イヒメは感謝の意すら覚えた。


(面倒で退屈な妾の世界は、変えることが出来ないのだろうか。妾の手で、なにか出来ることはないのだろうか)


 そんな思いすら無駄だと言うように、森の緑は闇のごとく深まっていき、流れて、流れる。イヒメの考えなど浅過ぎて飲み込んでしまえるとでもわらうように。


「はぁ、はぁ、イヒメ、どこ、行くのっ!?」


「うるさいぞ。手を離しても知らぬからな」


「繋いでるの、はっ、ていうか、掴んでるのは、イヒメの方でしょ!僕は、離したくても、はっ、離せないんだよ!」


「ふむ、それもそうじゃの。賢いの、流石さすがシアキじゃ」


 (妾は常々思うのじゃよ、この颯爽さっそうと流れゆく景色をそばに。シアキは不思議であると。妾は、シアキを初めて見たときなんとひ弱そうなおのこかと思った。しかしどうじゃ、今妾と同じ速さで一緒に走っているシアキは。息こそ切れているが、会話を成立させておる。妾は、運動が得意で、駆けっこなども他の者よりも速いと心得ておる。それについてきて、会話まで出来てしまうシアキは、きっと妾に劣らないなにかを秘めていよう。その一端いったんすら見たことはないが)


 ***


「着いたぞ」


「え?」


 一心不乱に走っていたのだろう。シアキは風景など見ていなかったようで、危うくピタリと止まった小柄な背中に衝突するところだった。


「うっわぁ……」


 壮大な眺めにシアキは言葉を失う。シアキのその表情で、イヒメは満足そうに微笑んでいた。


「どうじゃ、凄いであろう?母上には秘密じゃぞ」


「う、うんもちろん……まぁ、そもそも僕じゃ話すことすら出来ないと思うけどね」


「一応念を押しただけじゃ」


 イヒメはシアキから視線を外し、目の前の朝日に向き合う。江戸の朝は早過ぎた。イヒメが自称「朝食前の散歩」を終えてからここへ出向いても日の出が見られるほどに早い。それにもかかわらず、いつもいつも飢えていた。少なくとも、イヒメは。人々は毎日決まった仕事をこなし、毎日の生活を必死に生きていた。


(妾は、そんな日常が退屈だと思う)


「シアキ」


「ん?」


「妾がここから駆けて行くと言うたら、お主はどうするのだ」


「え?」


「妾は、この世界が好ましくない」


 (妾は、この世界が退屈でたまらない)


「妾たちは、まだ十年程度しか生きておらぬ!まだまだ間に合うはずなのだ!」


「イヒメ……?」


 (妾たちの未来は、まだまだ発展させられるはずなのだ)


「な、何を言ってるの、イヒメ?ちょっと落ち着いて……」


「妾は、この箱庭から出たい!このような小さく退屈な世界だけでは飢えて死んでしまいそうじゃ!」


 妾たちの未来をはばみ、潰そうとするこの限られた空間では。


「イヒメ……」


「足りぬ…足りぬのじゃ」


 全くもって足りなかった。イヒメは、それ以上を求めていた。


「……くく、イヒメ……君って本当に面白いね。だから放っておくことが出来ない」


「シアキ?」


 急に、彼の様子が変わった。短髪の黒がサラサラと風にそよいだ。風が吹く度に彼の目が鋭さを増し、印象はガラリと豹変する。


「箱庭、か。まぁそうなっちゃうよね。だって君は、君のお父さんに見せてもらった、見せてもらっちゃったもんね?広い、真の世界を」


「な、何の話をしておる、シアキ」


 唐突に語り出したシアキの言葉に、イヒメはついて行けずにいた。


「そっかー覚えてないんだもんねえ。ま、すぐ思い出すから大丈夫」


 空気が困惑で包まれたそのとき、しげみが鳴った。


「イヒメ!」


「母上!?」


 よく目を凝らすと、母親はあちこちに小さな切り傷を作っている。この場所に至るまでの森の道中でこうむったのか、それを裏付けるように髪の毛や衣服に細かな葉も付いていた。


(母上のこんな姿を見てもなお余計なお世話だと思ってしまう妾は、非情なんじゃろうか)


 そんな思いが胸をよぎり、冷たい悲しみがヒヤリと痛んだ。


「イヒメ戻るよ!どうしてここにいるんだい!どうしてここを知っているんだい!」


「知っている?違う、母上、この場所は妾が自分で……」


「あんただね!?」


 言うが早いか、彼女はシアキの頬をぶった。


「母上何を!シアキは無関係で……」


「私は以前忠告したよねえ!今後一切イヒメに近づかないでおくれと!それなのに……どうして……どうして諦めてくれないんだい!」


「母上、言っている意味をわかりかねる!」


「お母さん、イヒメを止めることは出来なかったんですよ。始めっから、貴方あなたの旦那さんが彼女を連れて行ってしまったあの瞬間からね。……諦めるのは、貴方の方かもしれない」


 激情している母親や焦燥しきったイヒメとは対照的に、彼は淡淡と言葉を置いていった。そんな彼の言葉の列が、場の空気を冷却していった。


「あんたねぇ……!」


 先ほどよりは熱の冷めた母親が拳をわななかせる。


「シアキ……?」


「イヒメ、君にがまだ残っているのか僕にはわからない。けれど、もしかしたらもしかするかもしれないから、覚悟はしておいてね」


 そう言ってシアキはニコリと笑う。晴れをくっつけたような楽しい笑顔だった。


「母上もシアキも、もっと簡潔に端的に話をしてくれぬか。筋も何も見えぬ」


「良いんだよそれで。期待させて悪いんだけどさ、イヒメは異端すぎるよ。どうして平和を自ら捨てようとするのかなー、自分で戻りたいと懇願したのに。まぁ、人はそういうものだよね。同じあやまちは、繰り返されるんだから」


「シアキ?」


 イヒメの胸は小さな不安の蓄積で少し震えていた。


「バイバイイヒメ、また明日」


 シアキが手を振る。後退あとずさり、遠くに離れていく。


「二度と現れるな!」


 母親が叫ぶ。


「母上……」


 そして、シアキは姿を消した。突風が、イヒメと彼女の母親の視界を奪い、そしてシアキも連れていった。呆然ぼうぜんと立ち尽くすイヒメの前で、母親の背中がかなしそうに映った。どうすることも出来ない上に原因が自分であるという事実がイヒメをその場に留めた。


 (いつだってそうであった気がする。シアキは、気が付けばいなくなる。ふっと目を開けるとその場にはもういないのじゃ。なのにまたひょいと現れて笑っては、妾を置いて行くように姿を消すのじゃ)

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