第三章 2-2


「ふわっはははぁーっ! これよ、これよ、これなのよなぁっ!!」


 叫声きょうせいを上げて高笑いをするサナリエルに、レイネリアが最初に抱いた感情は恐怖ではなく、痛心であった。無我夢中のこととはいえ、帝国の皇女を突き飛ばし、あまつさえ寝台の支柱にぶつけてしまったのだ。これは、どこか打ちどころが悪かったのかも知れない。


 もしも皇女の身に万一のことがあったら、もはや自分の命を差し出したとしても償い切れるものではないだろう。それは王国やホーリーデイ家を窮地に陥れ、ようやく思い出せた約束さえも閉ざすことになるのだが、そのとき彼女の胸に去来していたのは、意外にも皇女の身を案ずるものだけであった。


 思い返してみれば、皇女は決して悪い人物ではなかった。無論、帝国内で絶大な権勢を誇り、国家の暗部とも密接に関わっていると噂されるため、自分の知らぬところでは様々な権謀術数をろうしていることだろう。


 しかし、それでも皇女は傍に居てくれた。自分自身を見失い、もう何もすることが出来なくなっていたとき、それでも寄り添ってくれていたのは皇女であった。今更こんな時になって、どこまでも底の知れない超然としたその姿に、自分は救われてもいたのだと気付かされた。


 その皇女が恍惚の表情を浮かべ、口からよだれを垂らしながら哄笑こうしょうしている。もうこんな痛ましい姿は見たくないと、罪悪感に苛まれながら目を逸らそうとしたとき、彼女の耳に聞き覚えのある声が響いてきた。


「やれやれ、随分と痴態を晒されておりますな」


 貴賓室の扉へと身を翻した彼女の目に映ったのは、かつての軍事演習の陣幕で言葉を交わしたあの老魔術師であった。ミストリアが大陸随一とまで評した人物であり――もっともその比較対象に自身は含まれていないのだろうが――、久方ぶりの邂逅かいこうに彼女は驚いていた。


「ふん、斯様かようなことよりもだ。やはり、妾の見込んだとおりであったろう」


 いつの間にか、皇女の表情はまたいつもの飄々ひょうひょうとしたものへと戻っていた。その光景に面食らいながらも、大事なかったことに心から安堵する彼女を置き去りにして、二人は何やら確信したように頷き合う。


「確かに魅了チャームは行使され、姫様のとりことなっておりました。魔法は失敗したのでもなく、防がれたのでもなく、効かなかったのでもなく、解かれたのでもなく、切れたのでもありません。しかし、失われてしまったのです」


 何かとんでもない話をされたような気がするが、二人はそんな彼女を意に介さず、熱を帯びたように議論を続けている。時折、ついに第五の属性が顕現けんげんしたとか、天人てんじん地姫ちぎが気付かない筈はないだとか、頭ごなしに不穏な言葉が飛び交い、堪らず彼女が憮然ぶぜんとした表情で口を挟もうとしたとき、ようやく皇女が向き直った。


「天人からもたらされた力…その属性が幾つであるか、ニー様はご存じか?」


 突然の問い掛けに彼女は当惑した。それは奇妙な話であった。属性と言えば、火水風土の四大属性に決まっているではないか。いくら自分が魔法を使えないからといって、それくらいのことが分からない筈もない。


 しかし、そんな彼女の思考は、皇女の意味深な笑みによって否定されてしまう。いったいどういうことなのだろう。皇女の意図が分からず、しばし考え込んでいた彼女であったが、やがてあることに思い至った。


「ひょっとして、六大のことですか?」

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