第二章 EX(終)


番外



 私は生まれつき身体が弱かった。幼少期には外に出ることも叶わず、日がな一日、自室の寝台にせっていることが多かった。王国随一の名医にも診てもらったが、原因はようとして知れず、もはや体質としか診断のしようがなかったそうだ。


 私の家系はホーリーデイという貴族であり、大陸でも有数の女系の一族であった。長女である私には二つ歳下の妹がおり、私がこのような状態であったことから、次期当主には妹が相応しいと目されていた。他ならぬ私自身もそう考えていた。


 私の一族にはある特殊な役目があった。それは天人てんじん地姫ちぎと呼ばれる少女を育て、神の御許みもとへと送り出すことであった。天人てんじんとはかつて地上に降臨し、魔法を始め数多の叡智えいちを人に授けた神々のことである。そして、その天人に仕え、嫁ぎ、或いは捧げられた巫女たちは地姫ちぎと呼ばれていた。


 現在では既に天人は御隠れになって久しく、地姫もまた次第に廃れていった。しかし、唯一少女だけがその血脈を保ち続けており、いつしか天人と地姫の習合として天人地姫と尊称されるようになった。


 少女は人でいう成人の頃になると、かつて天人が降臨したとされる霊峰タカチホに旅立ち、そして次代となる娘を産んだ後、神々の世界へ還るという。その娘の地上における仮寓かぐうが私たちホーリーデイ家だった。その慣行がいつから始まったのかは定かではないが、それは遥か遠い昔に、一族の祖と交わされた盟約によるものであるらしい。


 しかし、所詮は私には関わりのないことだと思っていた。当主を継ぐのは妹であり、次代の天人地姫と同世代となる娘を産むのも、仮寓かぐうの主として共に育てるのも、私ではないのだ。両親も使用人も皆そのつもりであった。唯一人、彼女を除いては……。


 私が初めて彼女と出会ったのは五歳の誕生日を迎えたときだった。その頃の私はまだろくに自室からも出られず、窓から見える景色だけが世界の全てであった。深窓の令嬢と聴けば響きは清廉だが、幼心にもそれはとても退屈で詰まらないものであった。


 自室で催されたささやかな祝宴に、両親や妹、使用人たちに混じって、見知らぬ少女がいた。私は彼女をひと目見たときから、その可憐で謎めいた姿に…いや、その歳で既に完成された形容し難き美しさに、心を奪われてしまった。


 彼女はこれから一緒に暮らすのだという。以前にもそのようなことを母様から聞かされていたが、いつになるかは正確には分からないため、今まですっかり忘れてしまっていた。


 それから毎日、彼女と二人きりで時を過ごした。彼女はとても物知りで、私が知らない外の世界のことをたくさん知っており、ずっと話していても一向に飽きることがなかった。彼女には専用の部屋が設けられてはいたが、殆どは私と一緒の寝台で夜を明かしていたほどである。


 一見すると、病弱な貴族の娘のために、何処いずこから連れて来られた同性のお世話役にも思われるが、父様や使用人が彼女に向ける態度は尊敬と畏怖に満ちており、一緒にいると私までもが緊張させられた。


 一方で、母様が彼女に向ける眼差しはどこか懐かしそうな、優しさと慈しみに満ち溢れており、不思議と胸が締め付けられるような感覚を抱いていた。


 彼女と共に過ごすことで、私の身体も少しずつ調子が上向いていき、行動範囲も自室から室外へと広がっていった。しかし、依然として外出することには抵抗があり、両親に付いて王宮や他の貴族の邸宅などに赴くことは出来なかった。


 そして、私が七歳になった頃、父様からあることを提案された。それはこれから彼女と過ごす時間を、少しずつ妹にも分けてほしいというものであった。当時の私にも、それが何を意味するのかは分かっていた。次期当主である妹と天人地姫である彼女が、よしみを結ぶ邪魔になってはいけないということだ。


 それはとても残酷な宣告であったが、いつかは訪れることも覚悟していた。当主として家督を継げないのであれば、次代の天人地姫を育てることも出来ない。むしろ、両親は辛抱強く私の成長を見守ってくれていたのだと思う。


 後に聞いたところでは、父方の実家であるシチウタ家に身を寄せるという話もあったそうだ。シチウタの領都ソガリはヌーナ大陸で唯一、西方大陸ロディニアと交易を結ぶ港湾都市である。西方からもたらされる珍しい舶来品はくらいひんの中には、私の身体の滋養強壮に効くものもあるのではないか…というのが、表向きの理由でもあったらしい。


 彼女と妹が親密になることは、彼女とその娘のためにも、いてはホーリーデイ家のためにも必要なことだ。しかし、私がそれに耐えられるかどうかは疑問であった。そんな光景を見せ付けられるくらいなら、一層いっそのこと何処かへ消えてしまった方が良いとさえ思えた。


 もっとも、妹は決して私を蔑ろにするようなことはしないだろう。私が早々に当主になることを諦めたのは、何も体質だけの問題ではない。妹は贔屓目ひいきめに見なくとも、私よりもずっと聡明な人物であった。


 もしも妹の方が先に生まれていれば、或いは私が生まれてこなければ、彼女と妹は良き関係を育み、天人地姫とホーリーデイ家に相応しき間柄となっていたことだろう。それを奪ってしまったのは、他ならぬ私自身なのだ。私は妹に、彼女を返さなくてはならないのだ。


 それはとても淋しく、そして辛いことだ。彼女と共に過ごした日々は私に輝きを与えてくれた。退屈で詰まらない窓外そうがいの景色に美しい色彩を描いてくれた。そんな彼女と離れてしまう喪失感は、自分の半身を失うほどの苦しみでもあった。


 それでも承諾せねばならない。私は次期当主でなくともホーリーデイ家の女なのだ。祖先から綿々と受け継がれた宿命を背負っているのだ。


 そのとき、私の中にほんの僅かに、自身がホーリーデイ家の一員であるという自覚が芽生えた。そして、締め切った部屋に力強く開いた扉から、荒々しくも優しく吹き込んだ風がそっと私を包み込んでくれた。


「それはまかりなりません。私が友と望むのは最初から一人だけなのです」


 そこに居たのは彼女であった。その表情は今までに見せたことがないほど厳粛であり、有無を言わせぬ迫力があった。そして、その後ろには母様と妹の姿も見える。呆然と立ち尽くす父様に、彼女と共にいた二人も賛意を示す言葉を添えた。


 私は困惑していた。彼女は妹よりも私を選んだのだ。それは嬉しさよりも先に、何故なのかという気持ちの方が強かった。やっと決意したというのに、勇気を出して諦めたというのに、彼女は私が良いと言うのだ…私で、良いと言うのだ。


 私は涙が止まらなかった。視界がにじんで何も見えなかった。彼女のことも世界のことも視えなくなった。そんな私を不意に柔らかく暖かいものが抱き止めた。それは言うまでもなく彼女であった。


 彼女の胸の中で一頻ひとしきり泣いた私は決意した。強くなろう、どこまでも強くなろう。私を選んでくれた彼女に、恥ずかしくない私になろう。それが彼女に応えられる唯一のことであるのだから。


 その日から私にとっての戦いが始まった。昨日の自分に打ち克ち、今日の自分に諦めず、明日の自分に理想を抱く。それは苦難の連続でもあったが、それでも彼女が共にいてくれることが何よりの励みとなった。


 歳月は流れ、成人を迎える頃には私の身体も人並みほどには成長し、貴人としての所作を身に付け、社交の場にも出られるようになっていた。


 そして、彼女は旅立っていった。残念ながら共に旅に出ることは叶わなかったが、その頃にはもう、別れはそれほどの意味を持たないことに気付いていた。


 私と彼女は心で繋がっている。共に過ごした輝かしき日々は決して色褪いろあせず、今も私の中で光り続けている。あの日、それに気付くことが出来たから、私はもう悲壮感に囚われて泣くことはしなかった。


 それから、私は良き縁に恵まれて伴侶を迎えた。それもまた人は宿命と呼ぶのかも知れないけれど、優しい夫の腕に抱かれて、私は女としての幸せを感じていた。


 しかし、ここに至っても私の体質が原因なのか、なかなか子宝には恵まれなかった。こればかりは授かりものであるからと、母様も妹も優しい言葉を掛けてくれていたのだが、私は心の中で焦りを感じていた。


 ホーリーデイ家の家督を継ぐためには、ある一つの条件があった。それは後継となる子を生むことであり、母親となることが当主の最初の使命でもあった。


 私が婚姻してから既に六年もの年月が過ぎていた。母様は結婚した翌年に私を産んだことから、時期としてはもう彼女がやって来た頃である。しかし、私が子を宿すことも、彼女の娘が訪ねてくることもなかった。


 旅立った彼女のことはずっと気に掛かっていた。しかし、御幸ごこうの行程は不規則かつ神出鬼没であり、その足取りを正確に掴むことは出来なかった。ただ、その奇跡だけが遍在的へんざいてきに報告されており、彼女の神秘性をより一層伝播でんぱさせていた。そして、教国に入り霊峰タカチホへ向かったという情報を最後に、消息は完全に途絶えていた。


 彼女はいったい何処に行ってしまったのだろう。そして、彼女の娘はいま何処にいるのだろう。その疑問に答えてくれる者はなく、さらに一年が過ぎた。


 その日、私は夢を見た。夢の中の私は地面にせており、その腕にはまだ生まれたばかりの赤子を抱いていた。そして、目の前には彼女がいた。大粒の涙を溢しながら、私に向けて何かを叫んでいる、初めて見る彼女がいた。


 私は彼女の手に赤子を託すと、残る力を振り絞るようにして何かを呟いた。そして、世界からは色彩と音声が失われ、周囲には何もない真白ましろの空間だけが広がっていた。


 私は彼女が叫んでいた言葉を思い返していた。それはよく聞き取れなかったが、妙に聞き慣れた言葉であったと思う。そして、ようやくそれが何であったのかを理解できたとき、私は寝台の上で朝を迎えていた。


 翌年、私たちに念願の子が生まれた。それはホーリーデイ家の伝統どおり、珠のように可愛らしい女児であった。一族の男児は夭折ようせつするという家伝を信じていた訳ではないが、憂慮なく生まれてきてくれたことに安堵した。


 そして、私は正式にホーリーデイ家の家督を継ぐことになった。それを見届けたかのように、今までずっと私を支えてくれていた妹も、また縁によって他の貴族へと嫁いでいった。


 私は当主としての責務に加え、一児の母として育児にも追われていたが、いま思い返して見ても充実した日々であったと思う。娘は夫に似たのか健康そのもので、外に飛び出しては泥だらけになるまで遊んでおり、女の子としては少し心配になるほどであった。


 優しい夫に元気な娘と過ごす日々…かつて、自室に閉じ籠もり、未来を諦めていた私には、勿体ないほどの幸福であった。そして、私にはある予感があった。それは娘の成長とともに強まり、五歳の誕生日を迎える頃には確信へと変わっていった。


 娘の成長を祝う催しの準備をしていた私に、使用人の一人が来客を告げた。それは困惑を含んだ声色であり、訪問者は幼い女の子であると言う。


 その時の私はどんな顔をしていたのだろう。きっと泣きながら笑っていたのだろう。きっと嬉しいのに悲しかったのだろう。それでも私は彼女が来るのを待っていたのだろう。私は自然と玄関に向けて駆け出していた。


 あなたと離れたくなかった。あなたと一緒に旅がしたかった。あなたに生きていてほしかった。あなたにもう一度だけ会いたかった。


 でも、私頑張ったよ。あなたがいなくても頑張ったんだよ。大丈夫だから、もう私は大丈夫だから。だから、後のことは私に任せて…。


『ええ、ずっと頑張るあなたを見ていたわ。新しい私をよろしくね』


 扉に手を掛けた私の耳に、そんな声が響いたような気がした。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る