第二章 EX(終)
番外
私は生まれつき身体が弱かった。幼少期には外に出ることも叶わず、日がな一日、自室の寝台に
私の家系はホーリーデイという貴族であり、大陸でも有数の女系の一族であった。長女である私には二つ歳下の妹がおり、私がこのような状態であったことから、次期当主には妹が相応しいと目されていた。他ならぬ私自身もそう考えていた。
私の一族にはある特殊な役目があった。それは
現在では既に天人は御隠れになって久しく、地姫もまた次第に廃れていった。しかし、唯一少女だけがその血脈を保ち続けており、いつしか天人と地姫の習合として天人地姫と尊称されるようになった。
少女は人でいう成人の頃になると、かつて天人が降臨したとされる霊峰タカチホに旅立ち、そして次代となる娘を産んだ後、神々の世界へ還るという。その娘の地上における
しかし、所詮は私には関わりのないことだと思っていた。当主を継ぐのは妹であり、次代の天人地姫と同世代となる娘を産むのも、
私が初めて彼女と出会ったのは五歳の誕生日を迎えたときだった。その頃の私はまだ
自室で催された
彼女はこれから一緒に暮らすのだという。以前にもそのようなことを母様から聞かされていたが、いつになるかは正確には分からないため、今まですっかり忘れてしまっていた。
それから毎日、彼女と二人きりで時を過ごした。彼女はとても物知りで、私が知らない外の世界のことをたくさん知っており、ずっと話していても一向に飽きることがなかった。彼女には専用の部屋が設けられてはいたが、殆どは私と一緒の寝台で夜を明かしていたほどである。
一見すると、病弱な貴族の娘のために、
一方で、母様が彼女に向ける眼差しはどこか懐かしそうな、優しさと慈しみに満ち溢れており、不思議と胸が締め付けられるような感覚を抱いていた。
彼女と共に過ごすことで、私の身体も少しずつ調子が上向いていき、行動範囲も自室から室外へと広がっていった。しかし、依然として外出することには抵抗があり、両親に付いて王宮や他の貴族の邸宅などに赴くことは出来なかった。
そして、私が七歳になった頃、父様からあることを提案された。それはこれから彼女と過ごす時間を、少しずつ妹にも分けてほしいというものであった。当時の私にも、それが何を意味するのかは分かっていた。次期当主である妹と天人地姫である彼女が、
それはとても残酷な宣告であったが、いつかは訪れることも覚悟していた。当主として家督を継げないのであれば、次代の天人地姫を育てることも出来ない。むしろ、両親は辛抱強く私の成長を見守ってくれていたのだと思う。
後に聞いたところでは、父方の実家であるシチウタ家に身を寄せるという話もあったそうだ。シチウタの領都ソガリはヌーナ大陸で唯一、西方大陸ロディニアと交易を結ぶ港湾都市である。西方から
彼女と妹が親密になることは、彼女とその娘のためにも、
もしも妹の方が先に生まれていれば、或いは私が生まれてこなければ、彼女と妹は良き関係を育み、天人地姫とホーリーデイ家に相応しき間柄となっていたことだろう。それを奪ってしまったのは、他ならぬ私自身なのだ。私は妹に、彼女を返さなくてはならないのだ。
それはとても淋しく、そして辛いことだ。彼女と共に過ごした日々は私に輝きを与えてくれた。退屈で詰まらない
それでも承諾せねばならない。私は次期当主でなくともホーリーデイ家の女なのだ。祖先から綿々と受け継がれた宿命を背負っているのだ。
そのとき、私の中にほんの僅かに、自身がホーリーデイ家の一員であるという自覚が芽生えた。そして、締め切った部屋に力強く開いた扉から、荒々しくも優しく吹き込んだ風がそっと私を包み込んでくれた。
「それは
そこに居たのは彼女であった。その表情は今までに見せたことがないほど厳粛であり、有無を言わせぬ迫力があった。そして、その後ろには母様と妹の姿も見える。呆然と立ち尽くす父様に、彼女と共にいた二人も賛意を示す言葉を添えた。
私は困惑していた。彼女は妹よりも私を選んだのだ。それは嬉しさよりも先に、何故なのかという気持ちの方が強かった。やっと決意したというのに、勇気を出して諦めたというのに、彼女は私が良いと言うのだ…私で、良いと言うのだ。
私は涙が止まらなかった。視界が
彼女の胸の中で
その日から私にとっての戦いが始まった。昨日の自分に打ち克ち、今日の自分に諦めず、明日の自分に理想を抱く。それは苦難の連続でもあったが、それでも彼女が共にいてくれることが何よりの励みとなった。
歳月は流れ、成人を迎える頃には私の身体も人並みほどには成長し、貴人としての所作を身に付け、社交の場にも出られるようになっていた。
そして、彼女は旅立っていった。残念ながら共に旅に出ることは叶わなかったが、その頃にはもう、別れはそれほどの意味を持たないことに気付いていた。
私と彼女は心で繋がっている。共に過ごした輝かしき日々は決して
それから、私は良き縁に恵まれて伴侶を迎えた。それもまた人は宿命と呼ぶのかも知れないけれど、優しい夫の腕に抱かれて、私は女としての幸せを感じていた。
しかし、ここに至っても私の体質が原因なのか、なかなか子宝には恵まれなかった。こればかりは授かりものであるからと、母様も妹も優しい言葉を掛けてくれていたのだが、私は心の中で焦りを感じていた。
ホーリーデイ家の家督を継ぐためには、ある一つの条件があった。それは後継となる子を生むことであり、母親となることが当主の最初の使命でもあった。
私が婚姻してから既に六年もの年月が過ぎていた。母様は結婚した翌年に私を産んだことから、時期としてはもう彼女がやって来た頃である。しかし、私が子を宿すことも、彼女の娘が訪ねてくることもなかった。
旅立った彼女のことはずっと気に掛かっていた。しかし、
彼女はいったい何処に行ってしまったのだろう。そして、彼女の娘はいま何処にいるのだろう。その疑問に答えてくれる者はなく、さらに一年が過ぎた。
その日、私は夢を見た。夢の中の私は地面に
私は彼女の手に赤子を託すと、残る力を振り絞るようにして何かを呟いた。そして、世界からは色彩と音声が失われ、周囲には何もない
私は彼女が叫んでいた言葉を思い返していた。それはよく聞き取れなかったが、妙に聞き慣れた言葉であったと思う。そして、
翌年、私たちに念願の子が生まれた。それはホーリーデイ家の伝統どおり、珠のように可愛らしい女児であった。一族の男児は
そして、私は正式にホーリーデイ家の家督を継ぐことになった。それを見届けたかのように、今までずっと私を支えてくれていた妹も、また縁によって他の貴族へと嫁いでいった。
私は当主としての責務に加え、一児の母として育児にも追われていたが、いま思い返して見ても充実した日々であったと思う。娘は夫に似たのか健康そのもので、外に飛び出しては泥だらけになるまで遊んでおり、女の子としては少し心配になるほどであった。
優しい夫に元気な娘と過ごす日々…かつて、自室に閉じ籠もり、未来を諦めていた私には、勿体ないほどの幸福であった。そして、私にはある予感があった。それは娘の成長とともに強まり、五歳の誕生日を迎える頃には確信へと変わっていった。
娘の成長を祝う催しの準備をしていた私に、使用人の一人が来客を告げた。それは困惑を含んだ声色であり、訪問者は幼い女の子であると言う。
その時の私はどんな顔をしていたのだろう。きっと泣きながら笑っていたのだろう。きっと嬉しいのに悲しかったのだろう。それでも私は彼女が来るのを待っていたのだろう。私は自然と玄関に向けて駆け出していた。
あなたと離れたくなかった。あなたと一緒に旅がしたかった。あなたに生きていてほしかった。あなたにもう一度だけ会いたかった。
でも、私頑張ったよ。あなたがいなくても頑張ったんだよ。大丈夫だから、もう私は大丈夫だから。だから、後のことは私に任せて…。
『ええ、ずっと頑張るあなたを見ていたわ。新しい私をよろしくね』
扉に手を掛けた私の耳に、そんな声が響いたような気がした。
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