第二章 3


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「まさかとは思うけど…またなんてことはないわよね」


 サンドワームと遭遇してからはや四日、二人の足跡そくせきはようやく荒野の終わりに差し掛かろうとしていた。両国の緩衝地帯であるシュンプ平野を越えれば、いよいよその先はディアテスシャー帝国領である。


 レイネリアにとってはこれが二度目となる入国であったが、当時とは目的も手段もまるで異なっており、感慨よりも不安の方が大きかった。しかし、それ以上に彼女の胸に去来していたのは、かつて帝国で出会った人物のことである。


 今からおよそ一年前、彼女は国使の任を受けた母クラウディアナに付き従い、帝国へ向けて旅をしていた。そのときは王国が手配した特製の馬車で移動したため、帝国領までは三日ほどで着くことが出来た。


 生憎と眺望よりも防備を重視したものであり、外の景色を楽しむことは叶わなかったが、帝国領に入ったことだけは直ぐに分かった。それは荒野の終わりに迎えの使者が来ていたからである。


 しかし、その光景を見て彼女は驚愕した。それは当主、御者ぎょしゃ、そして護衛も同様であった。そこに姿を現したのは、皇帝の末娘であるサナリエル皇女であったからだ。


 帝国の皇女が使者に赴くなど、公設の使節団は勿論、たとえ国王が相手でも考えられぬことである。しかし、皇女は王国側の動揺を意に介さず、案内役として帝都まで随伴することを申し出た。


 そして、耳を疑ったのは彼女に御料車ごりょうしゃへの同乗を求めてきたことである。何から何まで異例づくしの事態ではあったが、帝国の使者、してや皇女を相手に固辞できる筈もなく、彼女は壮麗な意匠が施された車両に足を踏み入れた。


 御料車の中は外部と同様に豪華な装飾がされていたが、それほど大きな造りではないため、座席は一列分しか見受けられない。つまり、空いている場所は皇女の脇しかなく、彼女は恐る恐る隣へと腰掛けた。


 皇女は満足そうに頷くと、御者ぎょしゃに指示を出して御料車を走らせた。先ほどの馬車とは異なり、両側の壁には小さな窓が付いており、流れゆく風景が映し出されている。


 一瞬、不用心ではないかと考えたが、く思い返してみると、乗り込む際には窓を見掛けなかった。どうやら内側からは窓として機能するが、外側からは壁としか認識されないらしい。おそらくは『四鏡今鏡マジカル・ミラー』の魔法が施されているのであろう。


 しかし、なぜ彼女を同乗させたのか。人質という線も考えられなくはないが、むしろこの状況では危惧すべきは帝国側である。彼女と皇女では人的価値に差があり過ぎるからだ。


 しばし思案に暮れていた彼女であったが、やがて皇女の射抜くような視線を感じると、慌ててこうべを垂れて非礼を詫びた。貴き身分の者の前で物思いにふけるなど無作法にもほどがある。しかし、皇女は彼女の謝罪を途中で制すと、少し頬を緩ませるようにして嘆声たんせいを漏らした。


斯様かように恐縮されてはかなわぬ。折角せっかくそなたと話がしたくてここまで赴いたのじゃ」


 皇女の話によれば、迎えの使者は本人たっての希望であり、宮中でも反対する意見が多数を占めたそうだ。しかし、最後には押し切る形で皇帝の裁可さいかを受け、文官たちも承知せざるを得なかったという。


 皇女とはこれが初対面の筈である。いったい何が皇女を埒外らちがいな行為に及ばせたのか。疑念は果てしなく尽きないが、好意的な佇まいに過度の恐縮はかえって礼を欠くと考え、しばしの歓談と相成るのであった。


 端的に言えば皇女は風雅ふうがな人物であった。国境付近ということもあり、その出で立ちは薄く織り込まれた絹の装束に、帝国の徽章きしょうたる炎の紋章が刻まれた胸甲キュイラス前脛当ハーフグリーブが重ねられている。


 戦場に立つ旗手としてみやびさを漂わせる武装であり、皇女自身の燃え盛るような鮮やかな銀朱ぎんしゅの髪とも相まって、まさしく帝国軍を象徴しているといえた。


 一方、外見こそ雄々おおしさを纏わせながらも、皇女の内から漂う高貴なかおり、その整った顔立ちと洗練された物腰は、生まれながらにしか持ち得ない品位をも感じさせた。


 皇女は彼女の一つ下ということもあり、打ち解けるまでにそれほど時間は掛からなかった。彼女は将来的にはウィンダニア王女に仕えることになるため、主従関係となる女性との接し方についても心得ていたからだ。しかし、思いの外、皇女が親密に距離を縮めて…そう、密着してくるため、内心では戸惑いも感じていた。


「親しき者はそなたをレイニーと呼ぶのか。では、妾はニー様と呼ぶことにいたそう」


 何やら兄様とも聞こえるため、まるで男性みたいだなと内心では苦笑した。りとて、幾ら自分の方が歳上とはいえ、帝国の皇女から様付けで呼ばれることには多大な問題がある。


 皇女の真名はサナリエル=トク=ディアテスシャー、ヌーナ大陸で唯一、トクの姓を冠する帝国の皇族である。それは事実上、大陸で並ぶものなき存在であることの証でもあった。


 かたや彼女はレイネリア=レイ=ホーリーデイ、レイの姓を冠する王国の高等貴族だが、宮廷内での立場はヤノロム家や五大諸侯に次ぐ七番目である。しかも当主ですらないのだから、皇女と比べれば下賤げせんの身であるといっても過言ではなかった。


「おたわむれはお辞めください。余人に聞かれでもしたら、皇女をはずかしめたなどと有らぬ疑いを掛けられてしまいます」


 しかし、皇女は露骨に不機嫌な態度を見せてきた。皇女もまた為政者として帝王学を修めている筈だが、今回の型破りな行動といい、いささか自由奔放が過ぎるようであった。


「ニー様が心配することはない。妾に逆らえる者などそうは居らんのでな」


 皇女は屈託なく笑うが、彼女は一転して冷ややかな感情を抱いていた。確かに皇女には逆らうことを許さぬ絶対的な権力がある。しかし、それを傘に来て無道むどうを通そうとする行為は、彼女が最も嫌悪すべきものであった。


「親しき間柄にも礼儀がございます。皇女で有らせられるサナリエル様に、国使の従者に過ぎぬ私ごときが礼を失すれば、それは帝国に対する叛意と映るでしょう」


 そして、それは格好の口実となる。天人地姫がいる以上、よもや武力衝突という事態には発展し得ないが、長きに渡り覇者として君臨してきた帝国には、国力を削ぐ搦手からめては幾らでも用意されているのだ。


 彼女の剣幕に少し気圧けおされた様子の皇女であったが、不意に溢れるような笑みを浮かべると、目を輝かせて彼女の手を取った。


「妾のことを親しいと思ってくれるのじゃな。では、これからはサニーと呼んでほしい。お父様やお兄様にもそう呼ばれておるのでな」


 もはや彼女は呆れて言葉を失ってしまった。もしも人前でそのようなことを口走ってしまったら、たとえ皇女が許しても臣下から無礼討ちに遭いかねない。


 無礼討ちの厄介な点は、臣下としては来たるべきときに実行に移さねば、後に不忠として処断される可能性があることだ。貴き身分の者には、その言動が下々の道を狂わすことのないように、深慮遠謀しんりょえんぼうであることが求められるのである。


 皇女の好意を無下むげにすることには気が引けたが、今は使者としてわきまえねばならぬときである。皇女とてそれが理解できぬ筈がないのだが、大国としてのおごりがそうさせてしまったのかと思うと、少しだけ憐れにも感じられた。


 その後、およそ一週間の旅路において、彼女は皇女に翻弄され続けることになる。広大な版図を誇る帝国の首都までの道程は長く、また途上の宿場町でも皇女の傍に控えることを命じられた。


 当初はその傍若無人さに辟易した彼女であったが、時が経つに連れて次第に順応してきたこともあり、帝都が近付く頃には友人、或いは不敬ながらも手の掛かる妹のように思い始めていた。


 しかし、決して皇女をサニーと呼ぶことはしなかった。皇女もまたそれを気にしていたのか、ニー様と呼ばれることもなかった。如何に距離が縮まろうとも、心を通わせた気になろうとも、歴然とした身分の差が二人の間には存在しており、それを崩してはならなかったのである。


 そして、そろそろ王都が恋しくなり始めた頃、ようやく一行は帝都に到着した。それは国使としての使命が本格化するのと同時に、皇女との別れを意味していた。


 やがて、窓外そうがいの景色が宮殿を映し出し、この奇妙な旅も終わりを迎えようとしたとき、不意に皇女から声を掛けられた。また、何か無理難題でも申し付けられるのかと、少し怪訝そうに振り向いた彼女は目を見張った。


 最初、そこに居た人物が誰なのか分からなかった。いや、疑う余地などないのだが、これまで供をしてきた人物とは思えなかった。


「久方ぶりの善き時間であった。レイネリア殿には妾の道楽に付き合わせてすまぬことをした。数々の無体むたいをどうか許してほしい」


 これまでの暗愚な無邪気さは何処へと消え、その表情は曇りなき静謐せいひつさに満ちており、思わず息を呑んでしまう。そして、やはり目の前にいるのがサナリエル皇女であることを確信した。それは趣こそ異なれども、ウィンダニア王女にいだく心証と同質のものであった。


「私のような下賤な者に供を許して頂き感謝申し上げます。サナリエル様の御心に気付かず、己の不明を恥じるばかりにございます」


 彼女の謝辞に皇女が相好そうごうを崩す。その光景に安堵する彼女であったが、御料車の扉が開き、先に降りるべく身体をよじったとき、不意に皇女が顔を寄せ、唇でそっと耳をんで囁いた。


「次に逢うときはサニーとお呼びくださいね、ニー様」


 結局、帝都滞在中に皇女と顔を会わすことはなく、やがて国使の任をまっとうした母とともに王都へと帰還した。しかし、その出会いと別れは、一年が経った今でも強烈な記憶として彼女の中に残り続けている。


 皇女の艶めかしい唇が彼女の耳に触れた瞬間、それは背筋が凍り付くような、それでいて甘美さに身悶えするような、筆舌に尽くしがたい感覚に襲われた。そして、それは思い出す度に彼女の身をうずかせるのであった。


 忍び寄る煩悩を振り払い、視線を荒野の先へと戻したとき、ようやく風景に変化が生じてきた。それは一週間にも及ぶ荒野の踏破を告げる福音であり、前方には帝国への入領を雄弁に物語る巨大な要塞が屹立きつりつしていた。


 そして、その地にはくだんの人物の姿があった。

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