プロローグ

プロローグ 0


 風が吹いていた。静かで穏やかな涼風が荒野を流れていた。


 空気は酸素、水素、窒素、二酸化炭素などの物質から構成される。物質ゆえに質量、そして圧力を持つが、暖かい場所では膨張して密度が下がるため、大気の圧力…すなわち気圧は低くなる。


 寒い場所ではこれとは逆の現象が起こり、こうして周囲の気圧に高低差が生まれると、空気は高圧から低圧へと移動し、風となる。


 この世界ではそうした原理を知る者は少ないが、誰もが風が吹くことに疑問を抱かぬように、一つ感覚的に理解していることがあった。


 それは強き力の向かう先は弱き力であるということだ。その定理は人の世でも変わらない、むしろより顕著であるとさえ言えよう。すれば、人と空気は同じ物体である以上に、存外と近似しているものなのかも知れない。


 上記の説を支持するかのように、風の源流たる方位、すなわち気圧の高い風上には、一帯を単色で塗り潰す真紅の巨塊きょかいが鎮座していた。


 天変地異を想起させる奇異な光景であるが、く目を凝らせばそれが群体であることが認識できる。大地にうごめく動点は兵士であり、騎馬であり、共に纏われた光沢は劫火ごうかの如き色彩を放っていた。


 荒野に陣取る赤備えの集団…それを物量以上に精強に魅せているのは、個々の発する威容いようである。その身躯しんくが放つ怒張と創痕そうこんは、決して一朝一夕で身に付くものではなく、積年にわたる過酷な鍛錬によることを雄弁に物語っていた。


 しかし、何よりも特筆すべきは兵士の瞳に宿る炎、死をもいとわず、いや死すらも歓びへと変えて大義に殉じようとする矜持であり、固く統一された意志のもと、一塊としてただ一点だけを見据えていた。


 一方、風が吹き抜ける彼方、風下の側にも武装した集団が確認できた。先と同様に研磨された鋼の輝きを放ってはいるが、並列して比べてしまうと些か見劣りするようだ。


 規模こそ大きく勝りはしても、赤備えが武威の象徴であるのに対し、こちらはどこか画一性に欠け、色彩も混然としていびつである。


 その不協和音は個々の意識にも伝播でんぱしているようで、随所で動揺した様子がうかがえるのだが、掌中しょうちゅうに抱いた武力の矛先は、やはりただ一点だけに向けられていた。


 そう、両軍の先にあるものはただの一点だ。点は点であり、線でも面でも塊でもない。荒野に展開した両軍が対峙しているのは互いの存在ではなかった。


 では、そこに何があるというのか。質にひいでた軍勢にも、量にけた軍勢にも重んじられるそれは、両軍のしかと中間に位置していた。


 凛としたたたずまいで麗人れいじんは世界に屹立きつりつする。空気が気圧の高い方から低い方へと流れるように、人心の乱れが多勢から無勢へと向かうように、二つの軍勢はただの一人に惹き付けられていた。

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