第32話 主君と下僕

 その日の夕暮れ、エリスはカヴァスを伴って離れに帰ってきた。



「……」

「ただいまー」

「ワン!」



 下駄箱にはアーサーの革靴が置かれている。先に離れに戻っていたらしい。




 それを見たエリスは鞄をソファーに放り投げ、アーサーの部屋の前まで向かった。



「ねえ、アーサー」

「……なんだ」


「今日、カヴァスを側に置いてくれたんだよね」

「そうだな」


「用事があって側に入れない……って理由だよね」

「そうだな」

「……」




 扉を挟んで沈黙が訪れる。




「……最近部屋に居ること多いよね」

「そうだな」


「カフェに行こうって言っても、来てくれないよね」

「そうだな」


「色んな所に一人で行ってるみたいだよね」

「そうだな」


「……何か隠してる?」

「……」



 忠実に回答を返していたのに、そこで押し黙った。



「ねえ、もっと話をしようよ――」




 エリスは扉を開く。


 その中でアーサーはベッドに横になり、上半身を起こしていた。




「アー、サー……」



 血が飛び散った学生服を着たままで。





「……どうした。顔に何か付いているか、それとも――」



 アーサーが次の言葉を言う前にエリスは扉を閉めてしまう。




 そしてリビングまで戻ってきて、ソファーに突っ伏し、タオルで頭を覆った。




「ワン、ワン」



 エリスの足元にいたカヴァスが小さく吠える。彼女は応じるようにタオルの隙間から目を覗かせた。



「……なあに」

「ワンワン」


「……うん」

「ワン、ワン」


「ふんふん……」

「ワーン……」


「……」

「……ワンッ」




「……やっぱりわかんない。ごめん……」

「くぅーん……」



 その晩ずっと、エリスはソファーの上で震えたままだった。







 翌日。



「……あれ?」



 エリスはソファーの上で目を開くが、周囲には誰もいない。


 いつも彼女が目覚める時間には、一人も一匹もとっくに起きているはずだった。なのに誰もいない。




 何かを感じ取ったエリスは台所に向かう。




「……」



 シンクに食器は残されておらず、魔術氷室から食材が取り出された形跡はない。


 食事の痕跡が見られない台所を見て、エリスの目に昨晩のアーサーの姿が浮かぶ。



 血を被った彼の姿が――



「いや……いやだよ……」




 気が付くと彼女は朝食も取らずに、鞄を持って学園に向かっていた。






 ここは倉庫の裏。誰も立ち寄らない場所で二人の生徒が会話をしている。



「やあ。聞いたよ昨日のこと。中々痛手を与えたようじゃないか。でも次は殺せよ」

「……」


「あいつはうざったいんだよね。授業を担当しているかどうか知らないけど、ぼくのことに突っかかりすぎなんだよ」

「……」


「――まさか後悔している? 自分がいつもお世話になっている先生だから?」

「……していない」

「そうか。まあしていたら首切るけど」




 ハンスは壁に寄りかかり、アーサーの足を踏み付けながら金貨を弄っている。




 支配下に置いている彼は心底嬉しそうだ。一方で支配されている側は、一切表情を変えない。




「最近やっときみのことがわかってきたよ。きみは言われたことは忠実に守る性格なんだね。犬っころと何ら変わりないじゃん」

「……」

「腕を折れと言ったら折ってくれるし、顔面だけ殴れって言ったらボコボコにするし――ああ、理不尽な暴力に震える連中の姿! 今思い出しても笑えてくるよ」



 ハンスは笑いながら指で金貨をはじいた。



 それは音も立てずに、雨で乾き切っていない地面に落ちる。



「あとあれだね。その辺の雑草と変わりない奴でも、金がなくなった途端青ざめて慌ててやんの。全く、猿共に貨幣経済なんてオークに金剛石を与えているようなもんじゃないか。おこがましい」

「……」



 アーサーは表情を一切変えずに、ハンスを見据えている。



「じゃあ今日はどうするかな……厠にこの硬貨ぶち込む? いやそれだと洗われちゃうな……城下町にパシリ? それはこの間やったな……」

「……」


「……そうだ。迷ったら両方にすればいいんだ。まずは地上階で高めのケーキ買ってこい。当然これでな。それが終わったら校舎中の厠の糞尿をぶちかましてこい。あとついでに」

「……わかった」



 アーサーは硬貨を受け取り城下町へと赴こうとする。




 移動しようとして、振り向いたその時だった。




「……あ?」

「……!」



 振り向いた先に生徒がいた。


 赤い髪に緑の瞳の少女。



「……何しているの?」



 エリスは大きく目を見開き、静かに口を開く。



 今目の前に広がっている光景を否定するように。





「……」




 アーサーが言いあぐねている間に。




「ちょっと消えてもらおうか?」




 ハンスは咄嗟に地面を蹴り隣を過ぎ去っていく。







「――やめろ」



 アーサーはすぐハンスを追い抜き、



 腰の鞘ごと手に取り、




 ハンスの拳をそれで防いで弾く。




「……おい。何のつもりだ下僕」

「手を出すなら、容赦しない――」

「主君に逆らうのかって言ってんだよ、下僕」

「――オレの主君は、あんたじゃない」

「はっ――今更ッ!!!」



 ハンスはポケットから透明の球を出し、地面に叩き付ける。



 すると複雑な魔法陣がいくつも生成され、それは即座に大気と同化し見えなくなった。



「だったらてめえから片付けてやる。下僕が主君に、アタマだけが大きく進化した猿が偉大なるエルフ様に逆らうとどうなるか、身を持って思い知れ――!!!」

「――」



 シルフィはハンスから少しずつ遠ざかっていたのだが、



 この時点でそれがバレた。



「ああ? てめえ何してんだよ。いいから魔力を寄越せ」

「――、――」

「主君の命令も聞けねえのか、このポンコツがぁっ!!!」

「――!」



 ハンスはシルフィに掴みかかり、そのまま握り潰す。小さな雲の精霊は、空気に溶け込むように消えていった。



「ああ……だから嫌だったんだよ!! 転入先に合わせろだぁ? ぼくの指示を聞かないクズなんて、魔力を食うだけのヒモだなんて、最初からいらなかったんだよ!!!」





 その横でアーサーは鞘から剣を抜き、詠唱を始める。



「主君の喚呼は開戦の号令――」




「主君の涙は戦の象徴、


 主君の敵は己が仇敵。


 我が剣は闇を断つ――


 全ては主君の御心のままに」





 アーサーが詠唱を終え、鎧に姿を変えると同時に、



 ハンスも戦闘態勢に入る。身体の隅まで緑色の波動を纏い、足が宙に浮いていた。雲の精霊はどこにも姿を見せていない。




 風が吹き抜け、草木を揺らす。醜悪な瞳に血を滾らせ言い放つ。




「さあ、楽しい楽しい決闘の時間だ。言い訳があるなら死んでから聞いてやるよ――!!」

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