アンカー
湾野
序章
第1話
ひざの上のタブレットはいつの間にか真っ暗になっていて、やさしいまだらの木漏れ日が、その上で音もなく揺れている。
ぴゅーい、と聞いたこともない甲高い鳥の声に、
なぜ自分は、朝の六時から、こんな山の中で、学習用タブレットとにらめっこをしているのだろうか。
なんだかあらゆるものがばかばかしくなって、行火は傍らに置いていたショルダーバッグに、もそもそとタブレットをしまい込んだ。足元にふせっていた雑種犬の大五郎が、片耳をひょこりと動かす。一番はじめに来た時は、目の前にある、森の中を這うように流れる小川に興奮してはしゃぎまわっていたこの犬も、何度も訪れるうちに飽きたのか、今では遊ぶどころか探索すらしない。
犬って案外、ニンゲンっぽいんだな。
呆れるような感心するような気分で、行火は重くなったショルダーバッグを肩に掛ける。時計を確認した。六時十分。もうそろそろ、帰ってくるはずだ。
ぱっと大五郎が立ち上がる。ほとんど同時に、目の前の洞窟から一人の男が転がり出てきた。
「せっ、セーフ?」
「残念、アウト」
肩で息をして、おそらく走って出てきたのだろう男は、行火の言葉にあちゃーと額を手で押さえた。その足元に、尾をぴんと立てた大五郎が飛びつく。
「すまん、すまん。でも、待っとってくれたんな」
「ちょうど帰るところだったんだよ」
朝の心地よさに、ぼんやりと時を忘れていたとはとても言えずに、行火はふいと視線をそらして立ち上がる。
「で、終わったのか?」
「ん? ああ」
行火の言葉に男――
「依頼通り、ばっちりったい」
渡良が得意そうに掲げる、小指ほどの小さな瓶をのぞき込む。どんぐりの帽子をひっくり返したような皿の上で、最高にはじけた線香花火が燃えているかのような物体が、狭そうにぱちぱちと光っていた。
「なにこれ」
「わからん」
「熱くないの?」
「ないな。でも触るとすぐ崩れて、どっか行ってしまうけん、取るのに苦労したばい」
あっさりと渡良は言って、大事そうにポケットにしまう。彼の取ってきた〝ここではない世界〟の貴重な検体は、これから郵便局に運ばれて、依頼主である大学へと送られる。彼のこの、〝ダイバー〟としてのバイト代がいくらなのか、行火は知らない。
「収集の依頼は久しぶりじゃない?」
「そうなあ。そもそも、どんなとこかの資料がないけん、取って来いちゅーのも難しか」
「でも、なんかパッとしないよな。せっかくならさ、こう、虫とか鳥とか取ってくりゃあいいのに」
行火はくちびるをちょっとだけ尖らせた。せっかく別の世界に行けるのだから、こんな訳の分からないものじゃなくて、もっと手っ取り早くおもしろいものがきっとたくさんあるだろうに。渡良は小さく苦笑する。
「ハードル高か」
「そうなの?」
「行火は、そこらの鳥、捕まえられっと?」
そう言われてしまえば黙るしかない。それに、と渡良は振り返る。
「生き物はな、受けんようにしとるんじゃ」
「なんで?」
電子時計が震える。六時半。話しすぎた。早く戻らないと、ソネさんが心配する。慌てて大五郎のリードを拾い上げ、じゃあと踵を返そうとしたその襟首を、渡良の声が引き留めた。
「持ってきた何かを、むこうで待っとるやつがおるかもしれんけんね」
振り返る。渡良の視線は洞窟の向こうに注がれたまま、その表情は分からなかった。
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