第4章 青年と幻獣狩り
4-1 ウィルス性悪夢症
ペット捜索の一件から一週間後。
姫宮家の居間で、一人の少女が深く溜息をついた。
「暇だわ……暇すぎる」
壁にかかった時計の短針は、十という数字を指していた。
半袖ブラウスに、プリーツスカート姿の女子高生のような服装の少女——美山姫奈は、その時計の短針が指す数字を見るや否や、再び深い溜息をつく。
「はぁ……うちの用心棒の男共は自己管理もままならないのかしら」
文句のような独り言を呟くと、姫奈は苛立った様子で立ち上がり、居間を出た。
居間を出ると左手に伸びる廊下を突き進み、突き当たりの扉より手前の右側の襖の前で立ち止まった。
「せめてこいつくらいは起きてもらわないとね」
姫奈はにやりと何か企んでいるような笑みを浮かべると、襖を静かに開けた。
そこでは、畳の部屋の中心で布団にくるまって心地よさそうに男が眠っていた。
姫奈は忍び足でそっと男に近づくと、眠る彼の耳元で深く息を吸う。
そして——
「起きろ真田あああああああっ!!」
「うわあぁっ!?」
■■■
「こんな時間になっても起きてこないなんて……金で雇ってたら即クビにしてたところよ」
「すみません……朝は弱いもので」
寝癖をつけたまま居間で小さく正座をして、真田宗治は姫奈に説教されていた。
姫奈は、大人までもを負かしてしまいそうな程に強気な性格や、女子高生のような服装から一見高校生に見えてしまうが、小学六年生にあたる年齢である。
一方、姫奈に説教されている宗治は一見すると中学生程に見えるが、姫奈とは9つ歳が離れている。つまり、立派な成人である。
しかし、低身長や童顔、色白といった身体的特徴が彼を著しく若く見せていた。
年齢は宗治の方が断然上だが、姫奈家では年上の宗治より姫奈の方が立場が強いようだ。
姫宮家には家主の姫宮リリアン、美山姫奈、真田宗治、そしてもう一人の少年——黒井龍斗が住んでいる。
彼らはそれぞれ異なる事情で姫宮家にやって来ており、血の繋がりのない他人同士である。
四人での生活が始まってから約二週間。他人の寄せ集めだが、彼らは家族同然の付き合いとなっていた。
そんな彼らの一人である龍斗が一週間前から体調を崩し、寝込む日々が続いていた。
「龍斗くんの具合はどうですか?」
「今朝リリアンさんが狩りに行く前に診てくれたんだけど、ただの風邪じゃないかもって」
姫奈はテーブルの前に腰を下ろすと、アンニュイな表情を浮かべて頬杖をついた。
「リリアンさん、狩りする人なんですか?」
――リリアンさんが、獣を狩る?
宗治は、思わず自分の耳を疑った。
「意外よね。あのおしとやかの塊からは想像もつかないわ」
「想像してはいけないような気すらしてしまうのは僕だけでしょうか……いや、話を戻しましょう」
リリアンの狩りについてもかなり気になったが、宗治は本題に頭を切り替える。
「えっと、ただの風邪ではないというのは?」
「この頃寝てるときはずっとうなされてるじゃない? だから、ウィルス性悪夢症じゃないかって話」
「何その……」
——中二病的な病名。
と、突っ込みをいれようとしたが、幼なじみを心配する彼女の表情を見て、宗治は言葉を飲み込んだ。
この世界——幻界は人が作った人工世界である。漫画に出てくるような病名や生体が数多く存在しており、それらは決して珍しいものではない。
幻界で生まれ育った者たちにとってはありふれたものだ。
しかし、元々人間が住んでいる実界で育った宗治にしてみれば完全にファンタジーの世界である。
そのため、今のように同じ人間がそのような言葉を躊躇なく話していることに違和感を覚えることもあった。
「ウィルス性悪夢症は夢系ウィルスの一種である悪夢ウィルスに感染した人がかかるんだって」
——夢系、ということは。
宗治は恐る恐る姫奈に尋ねる。
「夢系ってことは、悪夢だけではないということですか?」
「そうそう。淫夢ウィルスとか明晰夢ウィルスとかも存在するわ」
宗治は自分の考えが当たってしまい、身震いした。
——夢系ウィルスには絶対に感染したくないな。
「まあただ、人から人に感染することはないから隔離の必要はないよ」
「じゃあ、一体龍斗くんはどこから……」
すると姫奈は眉間にしわを寄せて不愉快そうな顔をして言葉を紡ぐ。
「ミニチュアケルベロスとキスでもしたんじゃないの」
「あぁ……なるほど」
姫奈の一言で感染元を把握した宗治は相槌を打つと、一人うなされる少年の顔を思い浮かべた。
その時、宗治の向かいに座る姫奈がテーブルを強くバンと叩き、二階でうなされている少年にまで聞こえてきそうな乱暴な声量で言葉を吐き出した。
「アホやバカって言葉じゃ足りないくらいに頭悪いわ、アイツ!」
「彼にとっても僕らにとってもいい教訓だよ。次から気をつけよう」
宗治は、龍斗に聞こえていないかとひやひやしながら姫奈を落ち着かせようと言葉をかけるが、姫奈はため息に似た深呼吸とともに言葉を吐き出す。
「だったらあのバカはあと何回かかれば学習するのかしらね。夢系ウィルス感染は今回で三回目よ」
イラついた様子の姫奈は、三本指をビシッと宗治の前に突き出した。
「そ、そうなんだ……」
宗治は流石にかけてやる言葉をなくし、苦笑を浮かべることしか出来なくなった。
「ちなみに一回目と二回目は明晰夢ウィルスだったからそう心配するようなことでもなかったわ。でも……」
それまで呆れ顔だった姫奈は表情を曇らせ、ぽつぽつと語る。
「悪夢症は長引くと精神異常を来たす危険性があるから、早めの治療が必要らしいの」
先ほどの呆れ顔とは全く異なる、不安そうな表情。俯きがちな少女は、窓の外の賑わう大通りに目をやって、静かに話を続けた。
「最悪……他殺や自殺に至ることもあるって本に書いてあった」
右の手できゅっと左の袖を掴む少女の目は大通りではなく、窓そのものを捉え——もっと正確に言えば、宗治に自分の表情を読ませないように視線を窓側に向けていた。
しかし、宗治はそんな彼女の強がりを見抜き、遠回しに支えとなることを伝える。
「僕に出来ることがあれば、何でも言ってください」
「真田って、本当にお人好しね」
姫奈は視線を宗治に戻すと、困ったような笑みを浮かべた。
彼女は普段は強気に振る舞い、時折悲しそうな笑みを見せつつも、心を乱すことはほとんどなかった。
宗治は姫奈の子供らしい振る舞いを見たことがない。姫奈は大人とも対等に話すことが多く、甘えたりわがままな言動などは一切ない。
世間的には“大人びた良い子”だが、宗治は素直に甘えられない彼女を不憫に思っていた。
「その悪夢症の薬とかってあるんでしょうか。あるなら僕が買ってきますが」
「あるにはあるんだけど……夢系でも悪夢症だけは、一般には売ってないし処方もされないの」
「それは……何故でしょう?」
どうして?と言いたげな表情の宗治に姫奈は浮かない表情で続ける。
「材料になかなか手に入らない植物が使われてるからかなり高価なの。だから滅多に手に入らなくて、大抵は自然治癒で済ますんだって。……でも、自然治癒の半数は、治っても精神疾患を患ったりしてるらしいわ」
「そんな……」
精神疾患という単語を聞いて、宗治は事態が想像していた以上に深刻であることをようやく理解した。治ってしまえばなんてことのない、ちょっとした風邪程度のものだと思っていたのだ。
「リリアンさんもその薬を作れるらしいんだけど……あと一つ、その植物を持ってないからダメなんだって」
姫奈は俯くと、深く息を吸ってゆっくりと静かに吐いた。
「あのバカ。用心棒やるって言った先から重病人じゃん……やる気あるの?」
そう呟くと、姫奈は顔を両手で覆った。しゃくりあげたり涙を流すことはなかったが、彼女が泣きたい感情を抑え込もうと必死に耐えているのが見て取れた。
「その植物さえ手に入れば、龍斗くんを助けることが出来るんだね?」
「そうだけど……盗賊の居た山をだいぶ登った洞窟にあるの。それに、あの洞窟には凶暴な竜が住んでいるらしいから、一人だけで採りにいくのはほぼ不可能ね」
幻界には竜が存在しており、素人の人間が竜に立ち向かうのは鼠が虎に立ち向かうほどに無謀な行為であった。大型動物を専門に狩猟を行う狩人でも、一人では絶対に手を出さない。
宗治も幻界の竜に関する知識はそこそこあり、狩りのプロですら集団で挑む相手であることも知っていた。
しかし——
「僕が行って採ってきます」
「真田……正気なの? アタシの話ちゃんと聞いてた?」
姫奈は眉間にしわを寄せて宗治に問いかけた。
宗治は立ち上がると、寝癖を整えながら言葉を紡ぐ。
「もちろん一人で行くなんて無謀なことはしないよ。町の狩人を何人かあたってみます」
「そんな——」
姫奈が何か言いかけたが、そのとき既に宗治は居間には居なかった。彼女の放った言いかけの言葉は、誰も居ない部屋に虚しく響く。
一人残された少女は、今度は独り言として呟く。
「……そんな話、誰も聞いてくれるわけないよ」
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