第8話 ぬいぐるみは夢を見る
その夜、いや、これは七日目の早朝だったのかもしれない。はっきりとした時間は分からないが、黒猫ぬいぐるみは夢を見た。
それは未来の自分が幸せな生活を送っている夢だった。暖かい家の中で、ニッセと寄り添い料理をしながら微笑み合う。至って普通な生活の一部を夢は見せてくれた。
サムはニッセの腕に包まれて眠っていた。凍え震えて意識を失うように眠った本人はそのことを知らない。夢の中で感じられる温もりや幸福感の正体はニッセだった。
幸せな夢も、時に悪夢と変わることがある。幸せな時こそ誰もが油断をするもので、無防備な状態を付け込まれるのだ。
夢の中のサムも例外ではなかった。
無意識に鼻歌を歌いながら、買い物かごを腕にかけて家路を急ぐ。どこから帰ってきているかは曖昧だ。これは夢だ。細かいところまでは明確ではない。
雪がサムの頬に触れ、肩に積もる。長靴をはいた両足を前へ進めるのはひと仕事のように感じられた。それでも、大切なニッセに早く会いたくてしょうがないから、サムは埋まりそうになる両足を動かして家路を急いでいた。
トントントンと扉を叩く。
真っ赤な手袋をした自分の手を見つめて、返事を待った。
えへへ、とサムは頬を赤らめて照れ笑いをする。頭から足の先まで自分を包んでいるのはニッセが用意したものだ。ニット帽も手袋も、長靴もコートも……もっと言うなら、シャツも下着も全て二人で買いに行った特別な宝物。
「あれ?」
夢の中のサムは首を傾げた。
現実では一人で出かけたことなどない。いつもニッセがカギを使って扉を開く。だから、こうやって扉を叩いたことはなかったはずだ。
トントントン、ともう一度扉を叩くと中からニッセの声がした。
「サム、入っておいでカギは開いてるよ」
甘くて優しい声がサムの心を温めた。
だけど、扉は開かなかった。
ドアノブに手をかけ、ガタガタと揺らしたサムは目の前で起きていることに驚いた。
「凍ってる……?」
ホクホクしていた心から温度が抜けていくような不思議な感覚に陥った。
玄関の扉が枠に凍り付いている。氷が広がるように段々と扉自体も飲み込まれていくようだった。そして、それはドアノブを握るサムの手をも凍らせる勢いで……
「ニッセ!お願い、中に入れて!扉が開かないの!」
「残念だね。僕は冷たい子を家に入れる趣味はないんだ」
「何を言ってるの?!お願い、ニッセ。ボクだよ、サムだよ!中に入れて!寒いよ!このままじゃ凍っちゃう」
サムは必死に声を振り絞った。両目から流れる涙も頬を伝い顎から滑り落ちると氷となる。夢なのに実際起きているような痛みと冷たさにサムは苦しんだ。
「ハハハ、面白いことを言うな。お前はこのまま凍って死ぬ運命じゃないのか?」
聞こえた声はニッセのものではなかった。
雪の魔女だ。
一度しか会ったことのない人物だったがサムはよく覚えていた。
「まじょさん、なんで?ニッセに会いたいよ!どうして意地悪するの?」
「意地悪だと?お前は約束を忘れたというのか?一週間と言っただろ?今日だ。お前は雪となり溶けて消えるんだ」
「でもっ、もう少しだけでいいからニッセに会わせて!」
立つこともままならなくなった小さな体が扉の目の前で崩れた。痛いほど冷たい雪が尻もちをついたサムの肌にしみ込んでいく。
ニッセと過ごした1週間はサムにとって特別なもので、夢だと分かっていても、簡単にあきらめたくはなかった。あと、一度で良いからニッセに会いたい。最後に一度「ありがと」と伝え、「大好きだよ」と抱きつきたかった。
冬着をまとったサムの体はカチコチと固まっていく。空気の冷たさと体の冷たさが交じり合うほどに少年の体は冷え切っていた。
「まじょさん、お願い!大好きってニッセに伝えたいの!それだけでいいの!」
「伝えてどうする?その人間がお前に恋に落ちなければ同じ運命だぞ。どう頑張ってもお前はただのぬいぐるみだ。何も知らない無知なぬいぐるみに恋をする者がいると思うか?」
「それでもいいの!ニッセからは何もいらないの!もういっぱい、心がはちきれるくらい幸せと思い出をもらったもん!」
ニッセは雪になっていく冷たいサムの体を温めてくれた。これが最後になっても良いから、「大好き」という感情を教えてくれたニッセに「大好き」を伝えたかった。
「強情なぬいぐるみめ。さあ、来い。運命を受け入れろ」
「いやだ!」
小さなサムはありったけの声を振り絞り叫んだ。
動かなくなった体がギシギシと音を立てる。雪の積もる真っ白な世界がガラガラと崩れ、暗闇にサムは包まれた。
もうダメなんだ、と黒猫のぬいぐるみは思う。
ゆらゆらと体が揺れ、頭がグルグルと回った。
「サム?」
どこかから世界中の雪を一度に溶かせるほど温かい光が漏れてくる。
「サム?起きて。サム!」
ガタガタと体が揺れ、薄れていた意識が浮上した。
「サム!サム!」
「うぅぅ……ニッセ?」
ニッセは、腕の中で眠るサムが魘され大声を上げたことで目を覚ました。ここ数日間、体温が下がり、寒そうにしていたサムだったが、今日は状態が違うようだ。
冷たい体はもう震えてはいなかった。薄目を開けたサムを覗き込むと、ニッセは華奢な少年を強く抱きしめる。
「サム?身体、動かせないの?」
「……」
元々色白だった肌は、白を通り越し青白くなっていた。硬直した身体を無理やり動かそうとも、凍ったように全く言うことを聞かない。
瞼と唇だけは少し動かせるのか、とサムはこの時思った。
これが自分の最後なのだと、幼い少年は悟ると大切なその人に想いを伝えたいと願った。
「ニッ、セ……」
「サム、無理して喋らなくていいよ。毛布をもっと持ってくるよ。お医者さんも呼ぼう。暖炉の火も強めて、湯たんぽも作ってくるから。温かくすればすぐに治るよ。大丈夫だから」
「ニッ、セ……も、いいの…」
「何言ってるの?」
瞬きができなくなった瞳から透明な涙が流れる。つららのように綺麗なそれを見つめながらニッセは必死にサムの体を抱きしめた。
「あなたに、あ、うため、に、人間に、なった……ありが、と。ニッセ…あえ、て、しあわせだった。だいす、き、だよ……」
「待って、いやだ!サム!」
動かなくなった指先が白い光に包まれていった。じわじわと光は広がり、サムの足から髪までが雪となっていく。
死んだように動かなくなったサムの頬をニッセは両手で包み涙を流した。
一週間前に出会った少年はニッセにとって特別な存在になっていた。
「お願い、戻ってきて。僕も大好きだよ」
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