其の二
『母はある公立の中学校で、国語の教師をしていました』
又しても
内心の俺が舌打ちをする。
『教育に一生を捧げたような人でしてね、厳しくはありましたが、思いやりのある人でしたよ。それに教育熱心でした。』
昨今の学校教育というのは、二つの点で腐っている。
一つは、子供を教えるというより、
『子供の機嫌を取る』ということ。
今一つは、子供を如何に多くを『上の学校』、つまりは高校に進学させるか、そこにばかり重点を置きすぎている。
そう言う意味では、彼女・・・・
とにかく厳しかった。
授業についてこれなければ、どんなに遅くなっても、分かるまで残して教える。
そして礼儀や秩序に厳しい。
やるべきことをやらなければ、容赦なく鞭が飛ぶ。
(とはいっても、竹の棒でこつんとやる程度だったそうだが)
廊下に立たせる。
そんなのは当たり前だった。
そのせいもあってか、校長、教頭などの管理職はもとより、生徒の保護者、そして生徒からつけられたあだ名が。
『オニ』だったという。
しかし、どれほどの非難や忠告を受けようと、彼女が自分の姿勢を変えることはなかった。
また彼女は『いじめ』も許さなかった。
いじめが行われていると知ると、いじめた生徒を残し、何時間でも説教をしたという。
そうした理由もあってか、優秀な教師であっても、校内での評判は良くなかった。
挙句の果てにはこんな事件が起こった。
彼女が結婚をし、妊娠三カ月を過ぎた時(彼女はぎりぎりまで産休をとらなかったという)、授業を終えて帰る途中、何者かに階段から突き落とされ、彼女は流産をすることになった。
事が事だけに学校側も放置しておくわけにもゆかず、調査が行われたものの、最終的には有耶無耶のままで終ってしまったという。
(彼女は「自分を突き落としたのは複数の制服姿の生徒だった」と訴えたが、証拠もなかったし、誰も聞く耳を持たなかった。)
それでも彼女は病院から退院してくると、何事もなかったように学校に戻ってきた。
行人氏は、薫子が40代後半になって、やっと設けた子供だったという。
なるほど、それであれほど年齢の差があるのか、俺は合点した。
無論、それまでの姿勢を全く変えることもなしに、生徒を教え続けた。
教師と言えど、女性であることに変わりはない。
生徒からあれほど酷い仕打ちを受けながらも授業を続けられるなんて、なかなか出来るもんじゃない。
『それだけじゃないんです』
行人市は写真を眺めながらそう言った。
実は、彼女が復帰した後、別の『事件」が起こったのである。
当時は教師たちの間でも『組合運動』のようなものが盛んで、彼女の勤務していた学校もご多分に漏れず、という奴だった。
しかし彼女はたった一人で抵抗したのである。
『私は生徒を教えるために学校にいるのです。労働運動するためではありません』
そう言って組合への加入を真っ向から拒否した。
当然、そうなれば教師達からも嫌がらせを受ける。
それでも彼女は一切屈することなく、定年まで勤め上げた。
教員として優秀であった彼女が、退職をするまで管理職にもならず、転校もしなかったのは、こうした一徹ともいえる姿勢があったせいだと言われている。
職を辞してからは家事と育児に専念し、子供である行人社長が成長してから、学習塾のようなことを自宅で行っていた。
(もっともそれすらも、無責任な噂に引きずられ、あまり生徒も集まらなかったという)
『しかし、そんな母も、寄る年並には勝てなかったんでしょうね。70になった時、病気で倒れまして、6年間の闘病の末、亡くなりました。家では滅多に現役の頃について触れることはありませんでしたが、時々”立派な先生とはいえないけど、やれるだけのことはやったわ”と漏らしていました』
行人氏はそこで深くため息をつき、紅茶を飲み干した。
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