明・鏡・止・水

蓮水千夜

明と鏡

鏡子きょうこ、入るぞ」


 控えめなノックの音が響く。ぼんやりとベッドに腰掛けながら窓の外を見ていた鏡子は、ドアの方に目を向けた。


「……明斗あきと兄さん」


 現れたのは、他でもない。鏡子を無理やり連れ帰った明斗であった。その顔は、家出する前と違ってやつれており、自分がそういう顔にさせたのかと思うと少し胸が痛んだ。


「……良かった。ちゃんとここにいるな。帰って来てくれて本当に良かった」


 そう言いながら、鏡子の前にかがみ込み、優しく頬に触れる。


「…………」


 疲れているだろうに、その顔は穏やかで優しい。


 鏡子は、決して自分の意志で帰って来たわけではない。だけれど――。


 ――そんな顔されたら、私は――…。


 そういう顔をされたとき、鏡子はいつも、どうしたらいいか分からなくなる。普段は怒っていることが多くて怖い顔をしているのに、ふとした瞬間に見せる笑顔はとても優しいのだ。


 明斗に触れられるのは随分、久しぶりな気がした。前は少し怖かったこの手の温もりに、安堵を覚える自分がいる。この感覚に、果たして喜べばいいのか、それとも……。


「……鏡子」


 頬を撫でていた、指はいつの間にか唇へと移動していた。


「!」


 気付いても、もう遅い。唇へと触れていた指はいつの間にか、明斗の唇と入れ替わっていた。


「っ……!」


 最初は、優しく。でも徐々に深く、深く。追い求めるように鏡子の唇をむさぼっていく。


「ふっ、ぁ……、……んんっ!」

「っ、はぁ、……鏡子。鏡子……っ!」


 口づけの合間に、何度も何度も名前を呼ばれる。

 好きだと、愛しているなどと言われている訳でもないのに、その呼ぶ声だけで分かってしまう。


 ――それと同じ意味だと。


「あ、きと兄さん……。だ、めっ……。これ以上は……」


 激しさを増す口づけに危機感を覚え、明斗を遠ざけようとその胸を強く押し返す。


 ……だって、私たちは兄妹きょうだいなのに。――たとえ、血が繋がっていなかったとしても。


「鏡子……っ! 嫌だっ‼」


 しかし、逆に引き寄せられ思いっきり抱きしめられてしまった。


「……離したくない。今離してしまったら、お前はまたどこかに行ってしまうんだろう⁉ そんなの……、嫌だ……。俺は、鏡子がいないと駄目なんだ……っ!」


 それは、今まで見たことのない顔だった。こんな、今にも泣き出しそうな、崩れ落ちそうな明斗を鏡子は知らない。


「明斗兄さん……。私たちは、兄妹です。だから……」

「そんなのっ、理由になってないっ‼」


「きゃっ――⁉」


 明斗の怒鳴り声が響く。その瞬間、気付けば、鏡子はベッドの上に思い切り押し倒されていた。


「あきっ――」

「好きなんだ」


 眼鏡の奥からのぞく真っ直ぐな明斗の瞳が、鏡子を射抜いぬく。


「ッ――!」


 心臓が鷲掴わしづかみされたのかと思うほど、激しく鼓動が脈打った。


「自分でもどうしようもないくらい、鏡子が好きなんだ……っ! お願いだから、もうどこへも行かないでくれっ……!」


 そして、再び力強く抱きしめられる。その手はわずかに震えているような気がした。


「明斗兄さん……。私は……」


 ――私は。

 ――私は、どうしたいのだろう。


 明斗兄さんのこと、どう思っているだろう。


 ――嫌い、ではない。けれど……、好きかと言われても、それが兄妹以上の感情かどうかなんて、分からなかった。


 私はただ、家族みんなで仲良く暮らしていければそれで良かったのに。そんな家庭を夢見ていただけなのに。


 やはり、これ以上この家にいて、何の意味があるのだろう。ただの人形のようにもてあそばれるこの日々に、果たして意味などあるのだろうか。


 ――分からない……。


 もう、一体何が正しいことなのか、全く分からなくなっていた。


 ――私は、どうしたらいいのだろう?


 意味もないような透明な雫が瞳からこぼれ落ちた。


 ――この涙は誰のため?

 


 冷めて冷え切っていく心とは裏腹に、体だけは熱く貪られていく。

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明・鏡・止・水 蓮水千夜 @lia

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