捨てられるもの、捨てられないもの。

水瀬さら

 私の家の中で、絶対的な権力を握っていたのは父だった。

 そして私の母は、父に一度も逆らうことなく、黙って従っているだけだった。


 私は幼いながらに、そんな母を不憫に思っていた。

 父は暴言を吐くわけでも、暴力を振るうわけでもなかったが、常に母以外の女の影をちらつかせていて、それを娘の私でさえ感じ取っていたから。


「お母さんはお父さんを捨てないの?」


 小学生の頃、母にそう聞いたことがある。ちょうどその頃、テレビで芸能人の離婚騒動が話題になっていて、「私は夫を捨てました」と清々しく語っていた女性の言葉が、頭に焼き付いていたからだ。


 すると母は「どうして?」と私に微笑んだ。


「どうしてお母さんがお父さんを捨てるの? お母さんはお父さんのことを愛しているし、お父さんから必要とされているのよ」


 それは違うと思った。母は父に服従することで、自分が父にとって必要な存在であると、無理やり信じ込んでいるだけなのだと。


 けれどやっぱり私も母の子だ。成長し、見た目が母と似てきた頃、私の心にも母と同じ歪んだ愛情が、じんわりと芽生え始めていたのだ。


 ***


「おはよう。和花のどかちゃん」


 両手に大きなゴミ袋を持ち、部屋から外へ出た途端、声をかけられた。横を見ると、同じ造りのドアから出てきた隣の部屋の住人が、鍵をかけながら私を見ている。


「あ、おはようございます。たちばなさん」

「すごいゴミだね。引っ越しでもするの?」


 私は苦笑いしながら答える。


「いえ、部屋の整理してたらこんなになっちゃって……普段物を捨てられない性格なもので」


 小さく微笑んだ橘さんは、私の手からゴミを一袋取り上げた。


「ひとつ持つから、ちゃんと鍵閉めな」

「すみません。ありがとうございます」


 私は持っていた鍵で戸締りをすると、廊下を歩き出す見慣れた背中を追いかけた。


 ワンルームの部屋がずらりと並んだ、三階建てのマンション。

 ほとんどの住人は近くの大学に通う大学生だ。私も隣の部屋に住む橘さんも、その大学に通っていて、時々ばったりドアの前で会う。


「それにしても、ずいぶんため込んだなぁ」


 ゴミ置き場にゴミを置いた橘さんが笑う。いつものように穏やかな表情で。

 私よりふたつ年上の橘さんと、こんなふうに会話ができるようになったのは、いつからだろう。


 一人暮らしを始めたばかりの頃、隣の住人が男性だと知り、正直嫌な気持ちになった。父のこともあってか、男の人は苦手だったし、怖い印象もあったから。

 だけど偶然顔を合わせたお隣さんに、穏やかな表情で会釈された時、初対面だったのになぜか安心できた。

 そのうち自然と挨拶を交わすようになり、会えば一緒に学校へ通う仲になったが、卒業間近な橘さんとこうやって会うのは久しぶりだった。


「はい。でも少しすっきりしました」

「俺もそろそろ片づけなきゃな」


 そんな橘さんは、もうすぐここからいなくなる。このマンションの私の隣の部屋から、遠い街の実家へ戻って、そこで就職することが決まっていた。


 他愛もないおしゃべりをしながら歩いていると、すぐに学校に着いてしまった。すると門のそばに立っていた女の人が、こちらに向かって駆け寄ってきた。


「おはよう、たける


 橘さんを健と呼ぶその人は、橘さんと同じ四年生で橘さんの彼女の美玲みれいさんだ。


「おはよ、和花ちゃん」

「おはようございます」


 美玲さんは私にも声をかけてくれ、にっこりと微笑んで言う。


「ここから見てたら、あなたたち本物の兄妹みたいだったよ。お似合いね」


 なんて答えたらいいのかわからない私の前で、美玲さんは橘さんに向かって手を伸ばす。


「さ、行こう、健。じゃあまたね、和花ちゃん」


 美玲さんは橘さんの腕を組むと、それを引っ張るようにして歩き出す。


「それじゃあ、また」


 振り返った橘さんと目が合った。私は小さく微笑んで手を振る。


 周りの学生たちが、そんなふたりの姿を見ていた。

 美玲さんは、この大学ではちょっとした有名人だったから。


 美人で、成績も優秀。去年の学園祭で「ミス○○」に選ばれて、超有名な大手企業に就職も決まっているという。そんな彼女の隣で、いつも穏やかに微笑んでいる橘さん。ふたりは誰もが羨むカップルだった。


 しばらくその場でぼんやり立ちつくしていると、ポケットの中でスマホが震えた。

 画面を確認したら、そこには一週間ぶりの、勇人ゆうとからのメッセージが入っていた。

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