刑部卿の信心
孫市は、石山本願寺の下間屋敷にいる。
屋敷の主、下間頼廉は、目の前にいる孫市が口を開くのを待ち、沈黙していた。
「御法主の御様子は、いかがですかな?」
この雑賀衆頭目の表情は、いつもと変わらなかった。この部屋には、頼廉と孫市の二人しかいない。
「……お心を痛めておられる。此度の被害は甚大じゃ。昨晩も一睡もなさらず、犠牲になった門徒衆が、極楽浄土への道に迷わぬように、御仏に祈りを捧げておられた」
二千七百を超える門徒が犠牲になった、天王寺の戦いは、本願寺にとって痛恨事であった。今後、本願寺方から討って出ることは、事実上不可能になったといっていい。
「御法主や刑部卿殿が、気に病むことはない。敗戦の責は、土山左門にあり」
「……その土山左門も、行方知れずじゃ」
頼廉は、孫市から目をそらさない。
「聞くところによると、鳥居小四郎殿も、行方知れずとか……」
「うむ……あの二人は旧知の仲らしくてな。どうも共に、天王寺砦の囲みにおったらしいとのこと。巻き込まれたのかもしれぬ」
「なるほど……ならば首は、二千七百に紛れておりますかな」
孫市は、そう言ってわずかに笑みを浮かべたが、すぐに表情を戻し、失礼した、と頭を下げた。
「そういえば今一つ、面白い話がありますぞ。。信長を撃った天下の大悪人、雑賀孫市と、本願寺の坊官、下間刑部卿が討ち取られ、京で晒し首になっているとか。いや、やはり悪人には、それなりの報いがあるものですなぁ」
「それは、儂も聞いておる。おそらく、両人の信心が足りなかったせいであろう」
頼廉は、口の端に笑みを浮かべる。
「ほう、孫市の信心が足りないと聞いたことはあったが、刑部卿の信心も足りませんか。これも、時代というやつですかな」
孫市は腕を組み、何度か頷いた。二人は目を合わせ、しばし笑う
「孫市殿」
「はっ」
「おぬしの所業か?」
「御意」
孫市は、まったく悪びれることなく答える。
「さて、それは困ったのう。それなりの大義なくば、おぬしの罪を問わねばならんが」
頼廉は、顎に手をやり困惑の表情を浮かべる。
「鳥居小四郎は、雑賀荘で御法主を襲撃した連中の、首謀者でござろう。土山左門も同罪、当然の報いというものじゃ」
孫市が言っているのは、顕如の雑賀訪問の折にあった襲撃のことである。
「……証拠は、あるかの?」
「証拠などなくとも、刑部卿殿が一番御存知であろう」
「儂がか?」
「然り。でなければ、あんな都合よく暴発などせんでしょう」
その話の前提には、仏の加護はない。
「無慈悲な襲撃者が、御法主に向かって引き金を引く。その銃弾から御仏の加護が御法主を守ったとなれば、去就を迷う三緘衆の背中を押すには、充分でありましょう。話の筋道を考えたのは、御法主ですかな?」
「……暴発は、御仏の御加護じゃ。それ以外は、ない」
頼廉は、かぶりを振った。
「刑部卿殿。俺はあの時、銃を構えた襲撃者を撃つ機会があった。しかしその時撃たなかったのは、銃が暴発する細工が見えたからでござる。しかもその細工は、俺と細工した者にしかわからないものだった。つまり俺には、それをしたのが誰なのかもわかっている」
「それは一体、何者かな」
「根来の津田監物。あの細工は、あの男の仕業に違いない」
津田監物は、根来衆の一人で、その中心人物の一人でもあった。
「言い方を変えてもいい。つまり奴は、俺にしかわからない細工をすることで、あれが意図的なものだと、伝えようとした。俺に邪魔をするな、と」
「……」
頼廉は、無言のままである。
「……刑部卿殿。鳥居と土山はもう死んだ。あれが意図的なものだとも、わかっている。もう俺には、言ってくれてもよかろう」
孫市の言葉に、頼廉は静かにため息をつき、後ろ頭をなでた。
「……やれやれ、細工だけでその意図が伝わるか。おぬしらの繋がりは、深いようじゃな」
「意地の悪いことを……俺と監物が、不倶戴天の敵であることは、刑部卿殿も御存知であろう」
孫市はそう言って、顔をしかめた。その表情は、監物との深い因縁を思わせる。
「もはや……隠し立ては無意味のようじゃな」
頼廉は、諦めたように語り始めた。
「あれは、雑賀を訪問する数日前であったか……御法主様を襲撃するという企みがなされている、という話を我々に伝えてきたのが、監物殿であった。どうやら賊どもは、火縄銃の持ち込みに難儀して、根来衆に接触してきたらしい。もちろん、織田方を通じてな」
根来衆も雑賀衆と同じく、全ての意思が統一されているわけではなかったが、その大半は織田方であった。ましてや、織田方を通じて接触した根来衆なのだから、賊どもが信用するのも当然であった。
「監物殿が、御法主様に恩義あることは、おぬしも知っていよう。監物殿は根来衆の総意に背き、秘密裏に事の次第を、伝えてくれた。我々はそれを信じ、訪問を中止しようとしたのだが……」
「御法主が、いつもの思いつきをされたのですな」
頼廉が言いづらいことを、孫市がすぐさま言葉にした。
「……賊の狙いは、御法主様を銃で脅しつつ、醜態を晒させ、その上で害するという非道なものであった。それで三緘衆らを、織田方へ離間させようという腹づもりであったのだろう。結局賊どもは、根来衆から銃を調達し、その手引きで東から潜入するだろうことを、監物殿は伝えてきた。
その話を聞いた御法主様は、ならばそれを逆手にとってやろう、とおっしゃってな。監物殿に銃の細工を頼み、御仏の御加護を見せつけることによって、三緘衆の離反を止めようと、お考えになられたのじゃ」
「……まったく、危険なことをなさる。監物に裏があったら、どうされるおつもりだったのか」
孫市はそう言いながらも、顕如らしいことだとも思っていた。一度信頼したものは、とことん信じる。それは、孫市が惹かれる部分でもあった。
そんな顕如の行動の危うさは、襲撃の際に頼廉にも訴えている。
しかし、顕如がただの人であってはならないことも、理解できることであった。
「それを信頼なさるのが、御法主様じゃが……此度は、儂も肝を冷やした」
「……ほう?」
「万一、御仏にきまぐれを起こされては、かなわぬからな」
「さすがの刑部卿殿も、仏をお疑いあるか!」
孫市は、大声で笑った。
下間頼廉という男は、常に顕如に仏の加護があるように、根回しを行っている。そのきまぐれという一言は、その心の一端を垣間見せるように思われた。
「孫市殿。その襲撃の画策の裏に、鳥居小四郎がいるであろうことも、監物殿が伝えてきた。もちろん我らも、前々から小四郎のことは承知していた。孫市殿が手を下さなくとも、いずれ儂がやっておったであろう。此度は、よい機会であった。戦に巻き込まれてやむなく死んだとあれば、堺にも怪しまれまい」
その言葉に、孫市はにやりと笑う。
「此度は、苑也の事もふくめ、孫市殿には世話になった。礼を言わねばならんな」
頼廉はそう言って、深々と頭を下げる。
「あの偽者のこと、周りの方々には何と?」
孫市は、天王寺から戻った後、頼廉に苑也の正体のことを、すぐに伝えた。
しかし頼廉は、すでにそのことを知っていた。
「うむ……戦場近くで戦に巻き込まれたのか、取りあえず行方がわからぬと言ってある。しかし今後、死したというか、迷っておってな」
苑也が行方知れずと聞いて、頼廉の家族や二助は、深い悲しみに沈んでいたが、意外なことに父、頼康の嘆きがことのほか深く、死を口に出すのがはばかられていたのである。
「しかし、刑部卿殿。貴殿は甥御をあの偽者に殺された上、随分と長い間だまされてきた。もっと怒ってもいい、と思うのだが?」
頼廉が憎しみを持つのは、当然であろう。しかし孫市は、頼廉からあまり怒りや憎しみを感じなかった。
「あの男が、ここ最近思い悩んでいたことは、何となくわかっておった。もちろん理由は、これを読んで初めてわかったのだが……」
頼廉が出してきた手紙を、孫市は受け取り、さっと目を通す。
それは、以前三郎が書いていた、頼廉に宛てた手紙であった。
自分の生まれや、石山本願寺へ来ることになった経緯、本物の苑也を殺した理由などに加えて、頼廉に対する贖罪の言葉も書かれている。確かにその手紙からは、彼の苦悩が伝わってくる。
三郎は、鳥居小四郎の屋敷を脱出した後、この手紙を部屋に残して、去っていったのであった。
「……しかし、この程度では」
「確かに儂にも、あの男に対する憎しみはある。しかし、それだけではないのだ」
頼廉は、何ともいえない表情を浮かべ、話を続ける。
「実はな、以前、妹と苑也を自らの寺に住まわせていた越前の住職が、書状をよこしてきたのだ。焼き討ちで行方不明になっていた苑也が、最近見つかったと」
「……は?」
孫市は、間の抜けた声を出した。話がみえてこない。
「話によると、寺への焼き討ちで大火傷を負った苑也が、交流のあった別の寺にかくまわれていたことが、最近になってわかったらしい。というのも、その焼き討ちに不審な点があってな、その別の寺の住職が用心して、かくまっていたらしいのだ。ただ、その時負った火傷が原因で先頃、残念ながら亡くなってしまったというのだ。書状は、その苑也の骨を、どこに埋葬するかという内容でな……」
「……ちょ、ちょっと待って下され。話が……」
孫市には、何が何だかわからない。思わず言葉を遮り、額をおさえる。
どうやら、越前の寺が焼き討ちにあった時までは、本物の苑也で間違いないらしい。しかしその後、苑也が行方不明なのをいいことに、苑也に成り代わって、石山本願寺の頼廉のもとにいく算段をつけた何者かがいる、ということらしかった。
つまり、焼き討ちにあった後、無事に村で暮らしているという苑也は、すでに別人であったということである。
「では、あの偽坊主が越前の街道で撃ったのは……」
孫市はそう言って、絶句した。
「さて、何者であろうな。しかし、そうしてみると、あの男が不憫に思えてな。どうも、本気で憎めぬのだ」
頼廉は、しみじみとした顔でそう言った。
(……苑也殿、おぬしは一体、誰を撃ったのだ?)
孫市は思わず、心の中でそうつぶやくのだった。
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