苛立ち
その日の夕刻、織田勢への追撃を早々に切り上げた孫市は、三郎と共に石山本願寺に戻っていた。
顕如や頼廉に、直接戦況を報告するためである。
総大将原田備中を討ち取った孫市の功に、顕如も大いに喜び、その手を取って賞賛した。
石山合戦が始まって以来、野戦においてここまで織田勢を手痛く叩いた前例はない。この事実に、石山本願寺内も大いに盛り上がり、人々も大きく溜飲を下げた。
同時に首実検も行われた。
数多の首に交じって持ち込まれた、原田備中の首の額には、黒々とした銃弾の後があり、孫市の戦功を裏付けた。もっとも後頭部は、ほとんど吹き飛んでいたが。
その原田備中の顔は、驚愕の表情で固まっていた。
顕如への謁見を終えた後、下間屋敷で歓待を受けた孫市は、翌日もその軍議に参加した後、戦場に戻るために、すっかり暗くなった寺内町を一人歩いていた。
その孫市のもとに、追撃する雑賀衆に加わっていた但中が、暗闇からやって来る。
「……天王寺砦は落とせなかったか」
但中の報告を聞いた孫市は、腕組みしてため息をついた。
孫市の考えは、追撃の勢いそのままに、天王寺砦になだれ込む算段であった。
しかし、砦を守る信長の重臣、明智光秀はすでに防戦の構えを整え、本願寺勢を待ち受けて砦を固く守っていた。織田勢の大軍は雲散霧消し、天王寺を守る敵勢は決して多くはなかったが、戦上手の光秀は、良くこれを守り、本願寺勢の出鼻をくじいた。
そこには、攻城戦に慣れていない石山本願寺側の不首尾もあった。
「門徒衆の大将、土山左門は、砦が落ちるまで何日でも強攻すると言っているようです。お頭の三日で落ちなければ撤退すべし、という言葉も伝えましたが、一蹴されました」
「太郎次郎は?」
「お頭の方針に従う、と仰っていました。ただ、他の雑賀の頭領方の判断は、割れているようです。土山左門の翻意も難しいだろう、と……」
天王寺砦にはすでに、本願寺勢に包囲されていたが、門徒衆は多方向からの援軍で数を倍増させ、相対的に軍中の雑賀衆の割合が減り、その影響力は大きく低下していた。
全軍の統率は土山左門に集約されつつあったのである。
「それでいい。信長は必ずやって来る。あと三日で落とせなければ、鈴木党は撤退だ。それ以上あそこでもたもたしておれば、織田勢と野戦をしなければならん。囲まれてからでは、遅い」
「お頭も、戻られますか?」
「気が変わった。俺は楼の岸砦に戻る。土山左門と、話をする気にはなれん」
孫市は、吐き捨てるようにそう言った。
天王寺砦を包囲する、本願寺勢の陣中に再び戻る但中を見送った孫市は、月を見上げながらゆっくりと歩き始めた。
孫市は、月が好きであった。
その闇に浮かぶ美しさと輝きは、どこか顕如の姿を彷彿とさせる。
あの全てを見通し許す瞳の色が、そう見せているのだろうか。孫市には、顕如の存在が太陽のようなものだとは思えなかった。
(ならば……日輪は信長か?)
孫市は、不意に浮かんだそんな思いに苦笑した。なんとも、ばかばかしい話ではないか。
そんなことを考えつつ、ふと前方に気配を感じた孫市は、視線を月から落として足を止め、様子をうかがった。
堀に架かる橋に、人影が見える。月夜にぼんやり照らされたその姿は、少女のようであった。
「蛍……か?」
孫市はその姿を確認すると、軽く舌打ちをした。その少女の瞳が、怒りで日輪のように燃えていたからである。
「発中に聞きました」
「……あの馬鹿」
「土橋の姫は、夏には輿入れだそうですね」
蛍は、ゆっくりと孫市に近づく。
「婚姻はなしだと、言ったではありませんか。あれは、嘘だったのですか?」
「雑賀のため、十ヶ郷のためだ。女の勝手な意見など、聞く耳もたん」
孫市は野太い声で、冷たい言葉を放つ。
「鶴お姉さまはどうなるのです」
「知らん。あれは、間者のようなものだ。どうでも良い」
「じゃあ、私はどうなるの!!」
「知らん!!」
孫市は、苛立たし気に怒鳴る。
「御仏の誓うといったではありませんか」
「言った。そしてその後、念仏を唱えて許しを乞うた。御仏は念仏を唱えれば、許して下さる。
「勝手な理屈!」
そう言うや否や、蛍は叫びながら孫市に殴りかかろうとした。しかし、その手首を男は簡単に掴む。そのまま手を引っ張り上げ、もう片方の手で尻をつかみ、少女をひょいと頭上に抱え上げた。
「あ……!」
少女が短い声を上げた瞬間、男は月明りに鈍く輝く堀の水面に、その少女を投げこんだ。華奢な身体は軽々と弧を描き、激しい水音と共に水中に沈みこんだ。
一瞬の間の後、泥だらけの顔を水面から上げた少女は、じたばたと右へ左へもがいていたが、やがて泳ぎながら石が積まれた岸をめざす。幸い、泳ぎが達者な少女は、まもなく岸にたどり着いた。
「なにすんのよ!」
そう大声で抗議する蛍を無視して、孫市は歩き出した。慌てて道に戻った蛍は、半べそをかきながらその後ろを追う。
しかし決して孫市に並ぶことはなく、一定の距離を開けてついて来た。
「言いつけてやる」
涙声の蛍は、後ろから背中に言葉を投げつける。
「誰にだ?」
「御隠居様に、先代様に……苑也様に!」
「あの偽坊主に言って何になる」
孫市は、苛立たし気な声でそう呟くと、早足になって歩き始める。
この苛立ちは、男に一つの決心をさせていた。
蛍はもう駆け足になって、その後をついて行く。
(何もかも、うっとうしい。全てが、うっとうしいのだ。何も思い通りにならん。こんな時、信長なら何とする?」
月明りの下、孫市はそんなことを考えながら、楼の岸砦への道を急いだ。
天王寺砦を包囲された明智光秀は、すでに京にいる信長に援軍を要請していた。
その一報を聞いた信長は、直ちに諸国に動員令を発し、自ら兵を率い河内若狭城に入ったが、突然の発令だったためか、思うように兵が集まらなかった。主力となる、足軽が集まらなかったのである。
戦況は、石山本願寺有利に動いているように誰の目にも見えていた。
ただ一人、孫市を除いては……。
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