Ep.19 不穏な噂
歴史あるこの貴族学園の敷地は非常に広く、現在では老朽化してあまり使われていない棟もいくつか存在している。
そのいくつかの中の一棟、一般生徒は近寄らない人気ない旧音楽棟の最上階。破壊防止と防音の為幾重にも重ねられた音楽室に、まだ少したどたどしい少女の聖歌が響いて、静かに余韻を残して消えた。
「ふぅ……。ど、どうかしら……?」
今持てる全てをその一曲に注ぎきったカナリアが、恐る恐る背後の椅子にかけて聴いていたイグニスに振り返る。ガタンと音を立て立ち上がったイグニスは、カナリアに駆け寄りその華奢な肩をがっしり掴んだ。
「いいな!今までで一番綺麗だった!よくぞあの殺人級破壊音波からここまで上達してくれた、俺は感動したぞ!!」
「イグニス……、いえ、コーチ!!!」
感極まって手を取り合いつつ、『コーチ?』と聞き慣れない言葉に首を傾ぐイグニス。しまったと、カナリアが慌てて話題を変えた。
「でも本当に良かった!演劇祭は明日だもの、今日こうして形になって安心したわ。貴方のお陰ね、本当にありがとうございました!」
「ははっ、礼を言うのはまだ早いぞ。本番は明日なんだから、油断しないようにな。薬湯茶はまだ残ってるか?」
「いいえ、今朝ちゃーんと飲みきったわよ!」
イグニスの言う薬湯茶とは、例の罰ゲーム並みに苦い喉に効くと言うお茶のことだ。背に腹はかえられぬとずっと飲み続けていたが、これであの苦行ともおさらばである。
明日からは大好きな甘い紅茶の生活に戻れると思うと気分も晴れやかだ。
「そうか……。じゃあ、明日の本番前までに新しい物を煎じさせよう。本番には最善の状態で臨まないとな!」
イグニスの一言に、ご機嫌だったカナリアの表情がピシリと固まる。
「えっ、えぇぇぇぇっ、そんなーっ!!!」
無情にももう一度罰ゲームが確定したカナリアの叫びは、防音結界に阻まれ誰にも届かないのだった。
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少し時は遡り、数日前の話。
ロワゾーブルー王国の一大イベントである演劇祭。今年の主演は王太子、リヒト·ロワゾーブルーの婚約者であり社交界でも飛び抜けて優秀だと名高い公爵令嬢、カナリア.バーナードだと言う事で、例年に無いほど今から期待が高まっていた。
そして特に、話題の人であるカナリアが通う貴族学園は浮き足立っているようで……。
「あぁ、演劇祭もいよいよ数日後に迫りましたわね。今から楽しみで待ちきれませんわ!」
「本当に!今年は演目からロマンチックですし、何せ主演が我が国一の美男子と名高いリヒト殿下と、社交界の期待の星であるカナリア様ですもの!素晴らしいものになるに違いありませんわ!」
「そうだね。特にカナリア様は、楽器には長けていらっしゃるが歌声だけはこれまで秘匿にされてきた方だ。初お披露目が誉れある演劇祭の主演だなんて、流石だよ、あのお方は」
生徒達の憩いの場であるサロンでは、数日後に迫る演劇祭についての話で持ちきり。男女問わずその話題で盛り上がる中、肩身が狭そうに角に掛けた銀髪碧眼の美少年も空気を読んで皆の話に頷いていた。
だが、美少年が慕っているのはリヒトとは反りが合わない彼の兄、イグニス·ロワゾーブルー。そして彼は、カナリアの訓練をリヒトが放置していることも、代わりにイグニスが熱心に彼女に付き合っていることも知っていた。
だから、どうしてもリヒトとカナリアを褒め称えるこの場は居心地が悪い。切りを見て席を外そうかとこっそり目論んでいたが、ふと一人の令嬢の言葉で話題の方向が変わった。
「歌声と言えば……、皆様お聞きになりまして?例の旧音楽棟の噂!」
「まぁ、何のお話ですの?」
雰囲気が暗めのその令嬢曰く、今は誰も居ない筈の旧音楽棟の最上階のガラスが一度、謎の怪音波と共に全て砕け散ったことがあるのだと言う。まぁ恐いと言いつつ、周りの生徒達もその話題に乗り始めた。
やれ、実は掃除係の女性が音楽棟の裏を通った際に断末魔のような女の叫びを聴いただとか、最終下校時刻を回った真っ暗な構内で、男女らしきシルエットが肩をつかみ合っている姿を見ただとか。
恐怖が少し、好奇心がほとんどのその話題はさながら学園の七不思議と一緒だ。
その話題の主が皆の憧れのカナリアだとは露知らず、噂の話題で散々楽しむ生徒達。そんな中、誰かがふと思い出したように『噂と言えば……』と呟いた。
「俺も妙なのを聞いたことがあるよ。旧音楽棟じゃなく、旧礼拝堂の方でだけど」
「へぇ、どんな?」
貴族の若者に取って、噂は娯楽だ。嬉々として食いついてきた周りをしーっとなだめて、言い出した青年が声を潜める。
いけないこととわかっていてイタズラをする子供のようなその秘密な雰囲気が気になって、美少年もなんとなくそちらに耳を傾けた。
「実はさぁ、その旧礼拝堂にはよくリヒト様が瞑想に行かれるらしいんだけど、リヒト様が中に居る時は必ず“天使の歌声”が聴こえてくるんだって!」
話題の王子に天使の歌声。先ほどの七不思議的な話題と違い一気に華やいだ周りが『きっとリヒト殿下は天に愛されているのだ』とか、実はそれはリヒトと旧礼拝堂で会瀬を重ねているカナリアの歌声なのではないかとか、きゃあきゃあと皆が楽しそうに妄想を膨らませる中、リヒトが多忙だからとカナリアの訓練相手を断ったことをイグニスから聴いていた銀髪の美少年だけは、拭いきれない妙な違和を感じるのであった。
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