Ep.16 脅し?いえいえ、お願いです

 一分にも満たない聖歌の第一章を歌い終えたカナリアの目に飛び込んできたのは、カーペットの上に倒れ込んでいるイグニスの姿だった。


「え、えぇと……イグニス、大丈夫……?」


 カナリアが申し訳なさそうに言った途端、無惨に砕け散った窓ガラスと花瓶の破片や萎れた花から散った花弁が散乱する床からイグニスがガバッと起き上がった。


「大丈夫な訳無いだろうが!なんっっだ今のは!何をどうしたら人間の歌声でガラスが砕けるんだ!!」


「なっ!しっ、失礼ね!考えてもご覧なさい、武器を持たなくてもこの喉ひとつで敵を倒れさせるのだからいっそ天才じゃないの!!!」


「そんな才能今すぐ捨ててこい!!!控えてた侍女達も皆倒れちまって、あぁ可哀想に……。つかマーガレット、お前知ってて黙ってたよな!?一人だけ耳当てなんかしやがって……!」


「えぇ。主人の様々な状況に合わせて常に万全を期すのが一流の侍女でございますから」


 死屍累々で皆が倒れる中、耳当てを外しながらしれっと答えるマーガレットにイグニスは舌を巻き、カナリアは頼もしい侍女なようなでも無礼な扱いをされたような複雑な気持ちになった。


 しんとなった空気を変えるように、カナリアがパンと手のひらを合わせてイグニスに向き直る。


「とにかく!そんな訳で流石にこのド音痴のままでは舞台には立てないと思うの!」


「結局下手なの認めてんじゃねーか!まぁ、確かに、このまま出演されたら死者が出そうな勢いではあったが……」


 だが、それがなんだ。そう言いたげなイグニスの瞳を真っ直ぐ見つめ返したカナリアが言う。


「もちろん、練習をするつもりはあるの。でも、それには指南役が必要でしょう?」


 その瞬間素早く立ち上がり部屋から立ち去ろうとしたイグニスだったが、あと一歩の所でマーガレットに扉を塞がれた。

 イグニスがたじろいだその隙をついて、カナリアが彼の腕をガッシリと掴む。


「だからお願い!舞台の当日まで私の歌の練習に付き合って!!」


「うわ絶対言うと思った!嫌だよ!!第一何で俺なんだよ!一緒に舞台に出るリヒトに頼めば良いだろ!?」


 本気の拒絶を示すため、イグニスがカナリアの手を振り払う。しかし、カナリアも一歩も引かずにむしろ彼に詰め寄った。


「イグニスならともかく、リヒト様みたいな繊細な方にあんな殺人音波聞かせられるわけないじゃないの!」


「てめぇマジいい度胸してるよないっそ尊敬するわ!とにかく!誰が指導なんざ引き受けるもんか!!本気でやるなら講師でも頼め!」


「そんなの名のある先生方には軒並み匙を投げられた後に決まってるでしょう!」


「威張るな!薄々そんな気はしてたけど!!」


 それから、閑散とした部屋でギャーギャーと怒鳴り会うこと一時間。流石に疲れてきたカナリアは最後の手段に出ることにした。


「……わかったわ」


「ーっ!ようやく諦めたか?」


「どうしても引き受けてくれないなら、今から貴方のこと“お義兄様”って呼ぶから!」


「は!?」


 その瞬間、イグニスの表情にビシッとヒビが入った……ような気がするほど、空気が固まった。

 無自覚ブラコンで未だにリヒトの婚約者としてカナリアを認めていない彼が、この呼び方を許すはずがない。ニヤリと笑って、更に畳み掛けた。


「第一、弟の婚約者である私が栄えある舞台でホールのガラスを軒並み破壊するなんて事件を起こしたら貴方にとっても恥でしょお義兄様!リヒト様だってもしかしたら倒れちゃうかもしれないもの。リヒト様を大事に大事にしてる貴方がそんなこと許すわけないわよね、お義兄様!!」


 カナリアが『お義兄様』を連呼する度に、ぐぬぬ……と唸ってイグニスが後ずさる。悩んでいるようだ。

 

「……っ、いや、やっぱり駄目だ。今からじゃ間に合うわけがない!まぁ、人間誰だって得手不得手はあるさ。最悪歌だけは誰かに代理を……「それは駄目よ!!」……っ!」


「……リヒト様に一緒に舞台に立つ約束を申し出た時、私は彼に『完全なる実力で主演を掴む』と誓ったわ。その誓いを破りたくないの!“苦手だから”なんて理由で努力もしないで人に任せるなんて出来ないわ!!」


 力強い語気とは裏腹に、きゅっと弱々しい手でカナリアがイグニスの裾を掴む。今度は、振りほどけなかった。


「何もものすごく上手になりたいって訳じゃないの。ただ、せめてリヒト様や家族の期待を、裏切らないくらいに人並みになりたいだけ。絶対諦めないし逃げないから、お願いです。見限らないで……!」


「……!」


 ゲームのカナリアのように、『僕とこの国の未来に君はいらないんだ』なんて、言われないように。


 








 手こそ振りほどかれないが、イグニスからの返事はない。やっぱり、ワガママが過ぎたお願いだったかと手を離して謝ろうとした時、イグニスの方から短いため息が聞こえた。


「はぁ……ったく、1日一時間だけだ。それ以上は見ないぞ」


 その言葉に、弾かれるように顔を上げた。それはつまり……


「み、見てくれるの!?」


「あぁ……ま、あそこまで言われちゃあな。その変わり!俺はあくまで素人だからな、本当にただ聞いて駄目な点を修正するくらいしか出来ないぞ!!それでも良いんだな?」


 念を押すようなその言葉に、何度もコクコクと頷いた。


「見てくれるだけで十分よ、ありがとう!」


「あ、あぁ……」


 満面の笑みではしゃぐカナリアを見た瞬間、イグニスは何故かバッと顔を背けてしまった。

 きょとんとしたカナリアの側でずっと控えていたマーガレットが、いつの間にかまたつけていた耳当てを改めて外す。


「お話は落ち着かれたようですね」


「えぇ、今終わったわ。それよりマーガレット、貴方ずっと耳当てしてたの?」


「はい。お嬢様とイグニス様のお話し合いが仲良しすぎてあんまり騒々し……いえ、賑やかすぎて耳が痛くなってきてしまったものですから」


 白々く笑った専属侍女の答えに、カナリアとイグニスが『誰が仲良しだ!』と声を揃えて否定して皆に笑われたのは、また別のお話である。


「とにかく!今日から指導よろしくお願いします、お義兄様!」


「お前……っ、引き受けてやったんだから二度とそのゾワゾワする呼び方すんなよ!?」




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