(閑話)サイモンの弔砲

 いくつかのと司法取引の後で、俺は自由の身になった。司法関係者は苦い顔をして、立法関係者は渋い顔をした。行政関係者は無表情を保ったまま、政治家は厚顔無恥な笑みを浮かべた。

 世はこともなし。


「お帰りなさいませ、サー・サイモン・メドベージェフ」

「“外は良きお日柄のようです”、か?」


 軟禁状態だったホテルの玄関口に車を回してきたミハエルを相手に、俺は軽口を叩く。

 専属運転手が高齢により退職して以来、近場の運転はミハエルが行うようになった。どのみち出歩くのに自分の車が必要なことなど年に十回もないのだ。


「残念ですが、良きお日柄とは参りませんでした」


 空は雲ひとつなく晴れ上がっているというのに、俺は心の奥がどんよりと濁ってゆくのを感じた。

 ミハエルが手渡してきたメモには、簡潔な経緯と結論が書かれていた。略号と、数字と、図形で。


「サー・サイモン・メドベージェフ。これからどちらへ?」


 さりげなく俺の手元を覗き込みながら、ホテル暮らしでになった刑事が尋ねてくる。どうせ監視は付くのだろうが、隠すほどのこともない。


「家に戻る前に、に遭った親族の見舞いだ。ミハエル?」

記念病院MJHです」

「それはそれは。連絡は付くようにしていただけると助かります」

「心配しなくても海外逃亡したりとんだりはしない。用があるときには電話でもしてくれ」


 車を走らせること小一時間ほど。着いたのは若い頃に自分が買い取り再建した病院だ。いまでは国内最大規模の総合病院にまで発展している。おかしな話だが、ここは訪れるたびに少しだけ切なくなる。良い思い出も、悪い思い出も、あまりに多すぎる。

 最上階の“特別療養環境室きひんしつ”に向かうエレベーターのなかで、ミハエルが静かにスーツの襟を整えるのが見えた。


「おい、よせよ。にはならん。ボディチェックもある」

「わかっております」


 どうだか。

 案の定、エレベーターを降りたところからセキュリティが詰めていた。金属探知機とボディチェックを通って病室へ。どこかで嗅いだ匂いだと思って、視線を巡らす。


「“祈りのシェリル”の、新種です。いくつか出回っているようです」


 おかしな伝手で手に入れたハーブだ。もう大昔に思える。いや、実際に半世紀近くは前になるか。何もかも忘却の彼方だ。

 くだらない感傷を振り切って、俺は病室に入る。ノックはしない。貴賓室にドアなどないのだ。広くて殺風景な室内に、巨大なベッド。マリオネットのように管まみれになった老人が眠っていた。

 俺が近付く気配だけで、死にかけの元政治家はゆるゆると目を開ける。その視線は、こちらを認識しているのかどうかも定かではない。


「よぉ、シェビー。どうやら、しくじったみたいだな?」


 見舞客用のソファに腰掛け、ベッドの周りに散りばめられた花束を眺める。これも、こいつが持つ政治的影響力の残滓か。

 逆にいえば、こいつにはもう残念賞このていどしか残ってはいない。


「呆れるほどの花まみれだな、眠り姫。そのまま棺桶に突っ込んでやろうか?」

「……なに、を」


 かろうじて聞き取れる程度の声。濁った目に、憎しみの光が宿る。


「何しにきたかって? 面会だよ。な」

「きさ、ま……に、なに、が……」

「わからんな。わかりたくもない。わかったところで、もう遅い。これで、さよならだ。シェビー・ボーイ?」


 ずっと忌み嫌っていた呼び方で笑ってやると、枕の下から銀のSAAおもちゃを取り出してきた。震える手で、それをこちらに向ける。カチリと、小気味良い音が鳴る。何度聴いても、格別の響きだ。


「まだ、持ってたのか。嬉しいね。そこまで大事にしてもらえて」

「サー」


 割って入ろうとしたミハエルを手で制する。ベッドサイドに近付いて、額を差し出す。目を見て、笑みを浮かべて。震える手が、その指が、最期の力を振り絞って、俺に意思を向けようとするのを見守る。


「あんたは、俺から与えられるほどに、何かを奪われた気になっていたんだ。そうだろう? 何も与えることのできない相手からは、何も奪えないからな。ずっと俺が、殺したいほどに憎かった。なぜなら」

「……」

「俺は、この国で唯一、あんたを必要としていなかったからだ」


 カチン、と額の前で、小さく鐘のような音がした。枯れ木のような手が、力なくベッドに落ちる。


 ほぅっと微かな息を吐いて、老人はそれきり静かになった。

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