ガルデニアの残り香

咲いた

――放浪とは罰である。

其（そ）れは幽霊猟師（ワイルド・ハント）の類（たぐい）や彷徨えるユダヤ人（アハシェロスあるいはカルタピルス）などの伝承よりも遥（はる）か昔、キリスト教の旧約聖書に於（お）ける人類初の殺人者とされるカインの事例で立証出来る。

神がカインの収穫した作物を供物（くもつ）として受け入れず、其（そ）の弟アベルの羊を供物（くもつ）として受け入れた為（ため）、其（そ）れに嫉妬（しっと）したカインはアベルを殺害した、というのがカインとアベルの話の一般的解釈だ。

カインはアベルを殺した事を、嘘を吐（つ）いてまで話す事を拒（こば）んだが、アベルから流れた血液が其（そ）の殺害を神に申し立て、神に依（よ）りカインは罰として其（そ）の地からノドへと追放された。

其（そ）の「ノド」という言葉自体が「放浪」を指す以上、追放先が本当にノドという名の終着の地であったのか、其（そ）れとも放浪し続けたのかを読み取る術（すべ）は無い。

追放後、訪（おとず）れた地で先住者に殺される事を恐れたカインに、神は一つの印を与えた。

此（こ）れにより、カインは何ものにも殺されず、又（また）カインを害するものは、其（そ）の七倍の害を受ける事となった。

ノドに至（いた）り、妻を娶（めと）って以降、旧約聖書の記述上、トバルカイン等（など）のカインの子孫は現れても、カイン本人は現れ無い。

何ものにも殺され無い。其（そ）の何ものに、人以外も含まれるのであれば。

ノドという地。其（そ）れがノドという言葉が指す通りの「流浪」であれば。

其（そ）れ等（ら）の解釈に従えば、カインは、他の放浪する罪人等（ら）に先（さき）んじて、罰としての不死と終わらぬ放浪を賜（たまわ）った身である。

定住の民が大多数を占（し）める社会で、放浪は異物、異常である一方、或（あ）る種の聖別と読み替えられる。

何故ならば、放浪は聖人や神、王などに課される試練の一つでもあるからだ。

此（こ）れについては、世界に数多（あまた）存在する貴種流離譚（きしゅりゅうりたん）タイプの伝承や神話が、放浪という行動に依（よ）って保証される聖性――此（こ）の場合は特権性や権威性と読み替えても良い――の普遍性を物語っている。

其（そ）れでも終わらぬ流浪などするのは、聖人位（ぐらい）のものだ。

何方（どちら）にせよ、放浪する者が社会に於（お）けるイレギュラーとされる傾向が有る事に違いは無く、永遠の命と放浪を課せられているのは、苦行を望んで受ける聖人か、苦行を受けさせられている罪人の何方（どちら）かである。

私が、聖人等（など）では無いのは明らかだ。

人を傷つけ、其処（そこ）から得られる物に依（よ）らねば、平静を保（たも）つ事も出来無い者を聖（ひじり）と呼ぶなど、其（そ）れは正気の沙汰（さた）では無い。

――であれば、矢張（やは）り私は罪人なのだ。

先述の通り、古くはカインに始まり、彷徨（さまよ）えるユダヤ人も彷徨（さまよ）えるオランダ人も数多（あまた）の幽霊猟師（ワイルド・ハント）も、松明（たいまつ）持ちのウィルも、全てが全て、不終（おわらず）の苦しみを贖（あがな）いとして負（お）った罪人で、私は其（そ）れと同じなのだ。

其（そ）れでも、私は其（そ）れ程の贖（あがな）いを負わねばならぬ程の罪など、犯した記憶はない。

既（すで）に時の漂白（ひょうはく）で朧気（おぼろげ）となった記憶を、何度となく洗い直しても、始まりと同じ「何故」に辿（たど）り着く。

唯（ただ）此（こ）の流浪の中で抜け落ちただけだと言うならば、例（たと）え忘れたとて、一欠片（ひとかけら）の納得も抱いてい無い筈（はず）が無い。

此（こ）の罰を甘（あま）んじ無い訳が無い。

そして、私は矢張（やは）り、見誤っていた。

みぃちゃんに乞（こ）われる儘（まま）に、目的を口にして、其（そ）の切欠（きっかけ）を、不死なる罰の事を話した。

「だって、苦しいのが、ずっと、何をしても終わらないんだよね」

返ってきた其（そ）の言葉に、其処迄（そこまで）理解するのかと、驚いた。

みぃちゃんは賢い。思っていた以上に。

其（そ）れもあってか、目的を共有した時、意外にも、一つ重荷が降りたように感じた。

同時に、怖くなった。

生に倦（う）み疲れ、死が来ぬ事に対して抱（いだ）く、僅（わず）かな焦（あせ）りの混ざった怠惰な其（そ）れではなく、ぶらりと頭の上に剣を吊るされた様な、ぐらぐらと不安定に揺らぎ、何時（いつ）事が起きるかが分からない恐怖だった。

私が、久しく忘れていた性質の恐怖に違いなかった。

だが、何に恐怖しているのかは、私自身も分からなかった。

だから、私は柄（がら）にも無く、焦っていたのだと思う。

みぃちゃんに、自分が死んだら忘れろと、口走ってしまうなど。

其（そ）れが間違いだとは直（す）ぐに気付いた。

其（そ）れでは、覚えろと言っている様な物だ。

僕とのやり取りに慣れているみぃちゃんも、当然気付いただろう。

けれど、落花（らっか）は枝に帰らず、破鏡（はきょう）は照らさず、割った卵は戻らず、覆水（ふくすい）は盆に返らない。

以来、みぃちゃんに対して、本（ほん）の僅（わず）かな罪悪感と、恐怖を抱（いだ）くようになった私は、彼女を直視する事に抵抗を覚えて、少し視界が歪（ゆが）む程度に度の入った眼鏡を買った。